うたかたの如く消えた
      在りし日の姿を求めて No.54
元範多農園の蔵が『展示蔵』として公開 

昭和22年9月24日、64歳でハンス・ハンターが他界した後、元範多農園宅地
部分約4000坪は、当時の農林省外郭団体である(社)日本植物防疫協会に
売り払われた経緯はこのシリーズNo.50で書いた通りである。

その範多農園跡地に現存し、往時の姿を留めている唯一の建造物である
白壁の土蔵は、今日まで2〜3回敷地内を移転したそうであるが、
昭和44年から、同協会の植物防疫資料館の書庫として使われてきた。

病害虫防除に関する資料や植物防疫関係者から寄贈された書籍などで
ぎっしり埋め尽くされていた。

老朽化も進み、存続問題もそれとなく危ぶまれていたが、2007年6月
から植物防疫に関する資料や防除器具などの『展示蔵』として
関係者の努力と熱意で一般公開されたが、2011年3月閉鎖に。

毎月第一、第三金曜日だけの公開だが、
長く閉ざされていた扉が開かれた元範多農園の白壁土蔵




蔵のルーツと元の所有者ハンス・ハンター(範多範三郎)
についての解説が入口に

展示資料の概要
間口3間、奥行き2間あまりの2階建ての『展示蔵』は、床はフローリング材
に敷き変えられ、化粧直しされた壁には額装や軸装された資料、写真など
が展示されて、見違えるほど蔵内はイメージチェンジ。

植物の病虫害防除に関する一般受けしない資料とはいえ、スライド映写
機もプロジェクターもない明治の時代、東京帝国大學農科大学で教材と
して使われた稲熱病(いもち病)と梨赤星病の掛け軸は、後ろの席からも
見えるように細部まで克明に描かれ、その豊な色彩と描写力は
日本画としてもボタニカルアートとしても、見応えがある。

病虫害と闘ってきた農業関係者の厳しい道のりが伝わってきた。

2階ポスターコーナーには、満州開拓地での病虫害防除啓蒙に
使われたポスターや、第二次大戦末期の食糧増産を促す
チラシなど、食糧難時代がフィードバックしてくる。

農は食卓に直結し、健康につながるだけに貴重な資料であろう。
ハンス・ハンターの足跡や範多農園の在りし日の姿も知られる
機会になってほしいと願っていたが…。



上は開設中の展示蔵の内部。

 範多家の家系図(昭和47年当時)
huntertree.pdf へのリンク
いずれも昭和13〜14年完成直後に撮影されている。

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