在りし日の姿を求めて 34
小平の範多農園の在りし日の勇姿 3


ペルシャ絨毯の敷かれたゲストルーム


キルトのベッドカバーが素晴らしい


壁にはコレクションの絵画が


ゲストルームのドレッサーとサイドチェア


屋根裏に収納されていたスコッチの樽
          範多農園母屋のゲストルーム

範多農園母屋の外観と一階は日本古来の民家仕様だが、二階はH・ハンター
の寝室とゲスト用の洋式ベッドルームが三室あり、 いずれも広々とした室内にバ
ス・水洗トイレ付きで、スペシャルクラスのホテルをしのぐ家具調度が備えられてい
た。

壁のクロスや照明などの内装工事は、 アメリカで学んできた清水組の若手インテ
リアデザイナーが担当したという。部屋ごとにクロスの色やインテリアも変えて、床に
はペルシャ絨毯が敷かれていた。この絨毯は特に値打ち物だった。

各ベッドルームの南側ガラス戸越しに小金井カントリーのグリーンが見渡せ、ガラ
ス戸の内側には障子がはめられており、和と洋が巧みに取り入れられている。

新進気鋭に富んだイギリス人の父E・H・ハンターと、和歌山の士族の娘だった母
親・平野愛子(後に範多姓に改名)の血を受け継いで、両国の伝統文化を醸造
醗酵させたのがH・ハンターではないだろうか。

H・ハンターの居間に置かれたステレオは、
アメリカの製品を取り寄せてばらして12
枚のレコードが自動的に掛けかえられるオートプレーヤーに改良させた。 ヤマハの
前身といわれるメーカーに、研究させて改良を試みた。


赤坂の範多事務所の各室に取りつけてあったクーラーも、日立製作所に開発さ
せた国産のものだった。ばかでかくて場所ふさぎの代物だったが 「恰好はどうあれ
製品を完成させなければ日本の技術の進歩はない」 と、H・ハンターは考えてメ
ーカーに試作を働きかけていた。

そうした彼の功績は全く歴史の表舞台には登場してないが、今ならNHKの 『プ
ロジェクトX』に取り上げられてもおかしくない。

範多農園が完成したのは昭和13〜14年で、 昭和13年4月には小金井カント
リー倶楽部のコースを設計したトム・へーゲンが仲間のジョー ・カークウッドとともに
来日して同カントリーで模範ゲームを行っている。

当時のプロゴルファーのキングがプレーするとあって、その日は300人のギャラリーで
沸き、一躍小金井カントリー倶楽部の評判は高まった。

記録にはないが、H・ハンターも発起人の一人としてギャラリーに加わっていたので
はないだろうか。

範多農園の母屋が完成した時、竣工式のような特別なことはやらなかったが、小
金井カントリーに来た友人はゴルフ帰りに立ち寄り、一杯ひっかけてはH・ハンター
と歓談し、採れたての野菜を土産に帰る客が多かった。 ゴルフ場と範多農園との
境界の中ほどに、柴戸が設けられており、来客たちはそこから出入りしていた。

昭和13年10月駐英国大使の任を解かれ、翌年3月に長年の外交官生活を終
えた吉田茂も、範多事務所に顔を見せるようになり、ゴルフ帰りに範多農園に立
ち寄ることが多かった。

「おーい、吉田!」とハンスは気やすく呼びかけ、吉田氏の方も、「イエス、サー」と
調子よく応じていた。「そのように呼び捨てにして、よろしいのでしょうか」 と、伊藤
徳造さんら側近が気をもんでも「いいんだよ、彼はいま、浪人中の身で暇なんだか
ら」と、二人は気にも止めず、グラスを傾けながら雑談に興じていた。

吉田茂はシェリー酒がお気に入りだった。






在りし日の範多農園トップへ