在りし日の姿を求めて 35
小平の範多農園の在りし日の勇姿 4



水耕栽培もしていた範多農園の
2棟の温室


H・ハンターがお気に入りの温室風景


新宿植物御苑当時の温室
          先駆的だった範多農園造成 1

約1万2000坪の農地の土壌改良にかかったのは、母屋がまだでき上がる前
だった。1万2000坪といえば、約5町歩(5f)。 昭和14年当時、隣の小川
新田(21戸)の農家の耕地面積は、3反未満1戸、3〜5反4戸、5〜10反
6戸、10〜15反7戸、15〜20反2戸、20〜30反1戸と比較してみると 範
多農園の規模がいかに広大であったか…。

当時、同じ鈴木新田の隣地に小岩井農場があった。現在の嘉悦学園・嘉
悦大学の敷地にあたり、岩手県雫石の小岩井農場の出張所と研修所、い
までいう配送センターを兼ねており、実験牧場もあった。そこで牛や馬を飼っ
ており、牧場の管理人や研究員たちも範多農園によく出入りしていた。

そうした専門家からアドバイスを受けながら 表土を深さ50〜60aも掘り起こ
して、小岩井農場から出る牛糞を主に馬糞、人糞、堆肥などを客土に使っ
て本格的に土壌改良に取り組んだ。


H・ハンターは母屋の西側に鉄骨ガラス張りの温室も2棟設けていた。1棟は
約70坪、もう1棟は40坪ほどの大きさで、スチームヒーターを備えた本格的な
温室だった。 1棟ではセロリやピーマン、アーティチョーク など当時では珍しい
西洋野菜を栽培、もう1棟では水耕栽培を試みていた。 水耕栽培でキュウ
リ、トマト、ニューヨーク種のレタスの栽培に成功していた。

深夜に温室に入り、懐中電灯で照らしながら丹念に虫を取ったり、液肥のパ
イプの流れを見て歩くH・ハンターの背中も、 側近の伊藤徳造さんらはよく目
にしたそうだ。

遺された数枚の温室の写真を見ていると、何処か遠い国を旅しているような
気がする。

H・ハンターは農園芸については東大の雨宮博士らの指導助言を得る一方、
英国から取り寄せた文献資料で学んで、並々ならない研究を重ねていた。
また、大阪在住の頃から、日本の農学の発祥の地といわれ、野菜花卉の研
究センター的な役割を果たしていた宮内省の 『新宿植物御苑』、現在の新
宿御苑から洋蘭を取り寄せたり、同苑の所長で『福羽いちご』 をの生みの親
で知られる福羽逸人(はやと)博士とも親交があり、情報交換もしていた。

こうしてH・ハンターが熱意を注いだ画期的、近代的な範多農園は誕生した。

福羽逸人博士

福羽逸人博士について
1856〜1921、子爵、農学博士。島根県の出身で16才のときに、内藤新宿試
験場の実習生となりました。農事修学所勤務を経て、明治12年、新宿植物御苑
の発足と同時に雇となり、退官するまで新宿御苑のために力を尽くした。明治31
年には「福羽苺」 を作り出すなど、温室、フレームを用いた野菜、花卉(かき)の栽
培・研究の先験者・指導者として 優れた実績を残している。 現在出回っている多
種多様なイチゴは福羽系と欧米種のハワード系に分かれて発展し、 福羽系は芳
玉、幸玉、春の香、豊の香、麗紅で、日本市場のイチゴの殆どは福羽いちごにつ
ながっている。

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