在りし日の姿を求めて 36
小平の範多農園の在りし日の勇姿 5



範多農園母屋の玄関に掛けられて
いた雨天作業用の合羽


ヌートリア
体長は50〜70cm、体重は5〜15kg
げっ歯目ヌートリア科の草食動物

上野動物園に 初めて輸入されたのは
1907年。1930年頃から軍用服の需
要が高まったため、 毛皮獣として輸入
飼育されるようになったが、後にその一
部が逃げ出して、 各地の河川に野生
化して住み着くようになった。農作物に
被害を与えて農家の嫌われ者となり、
現在、毎年捕獲駆除されている。



開設初期の範多農園母屋

      ヌートリアも飼育していた範多農園も戦時体制に

昭和13年から14年にかけて1万2000坪の農地に本格的な土壌改良を施し、
2棟の温室では洋蘭や洋野菜の栽培も試みていた『範多農園』の一角では、
ヌートリアの飼育もしていた。

ヌートリアは南アメリカ原産の哺乳動物で、ネズミを巨大にしたような体形をして
おり、水生にも適応して良質の毛皮がとれ、 肉もうまいということから、この当時
移入されたと動物図鑑などに記録されている。生後2〜3日で乳離れして餌を
食べ始め、妊娠期間は2〜3カ月で5~10匹と多産で、軍服の毛皮と動物蛋白
源として期待されていた。

農園の従業員は加藤登一管理人を筆頭に、専従者が酒井正巳、安西喜代
次郎の2人に日雇いが4人。 そのうち酒井氏は農林省を退官した農芸化学の
専門家であったが、ヌートリアの飼育に当たっていた。 短期間ではあったが、牛と
馬を飼っていた時期もある。


ところが、 開設早々から国を上げて戦時体制に入り、 農産物の供出、作物の
割り当て制が厳しくなり、H・ハンターの描いた理想の農園とはかけ離れたものに
なっていった。


昭和14年(1939)4月、米穀配給統制法が交付され、翌15年9月には臨時米
穀配給統制規則が施行された。この施行により米穀の出荷統制 ・集荷・配給
の機構が政府の命令で動きやすいように整備された。

さらに11月には米穀管理規制が施行され、 生産農家は飯米として必要な量
以外は、すべて政府米として買い上げられる。つまり割り当て供出になった。16
年4月には、生活必需物資統制令が交付になり、食糧、衣料などが切符制と
なり、日用品の統制はことごとく強まっていった。

また、これまで一部統制されていた麦類も、16年5月の法令により農家の全販
売数量を政府が買い上げることになった。

統制が進む一方、太平洋戦争の勃発以降、食糧難は緊迫の度を強めており、
政府は食糧管理法を施行した。 各生産者に義務を課して必要量を確保する
と同時に、消費者に安定供給を図る名目であったが、 米、大麦、小麦の生産
者は政府に売り渡すことが罰則つきで義務付けられたのだ。 この法律で米麦だ
けでなく雑穀、サツマイモ、馬鈴薯(ジャガイモ)なども統制されるようになった。


畑作地帯である小平の供出は主として麦とサツマイモ、馬鈴薯で、桑畑や荒地
はジャガイモ、サツマイモ畑に変わっていった。畑のでき具合を調べ、 面積に応じ
て割り当て量が決められ、その責任額を供出するというやり方で、側近の伊藤徳
造さんによると、『範多農園』への割り当て量は相当厳しいものだった。


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