在りし日の姿を求めて 37
小平の範多農園の在りし日の勇姿 6


大岡越前守屋敷にあったと伝えら
れる白壁の土蔵



大岡越前守上屋敷跡



大岡越前守下屋敷跡と範多事務所、
ハンター別宅位置マップ



   古い新聞記事をもとに、“越前さんの蔵”のルーツを探る

H・ハンターと範多農園の存在を知って以来15年あまり、 その間、関係の
ありそうな史料や情報が見つかると、アットランダムにダンボール箱に放り込
んでおいた。

そのダンボール箱の中に昭和61年1月28日付け朝日新聞朝刊コラム『青
鉛筆』の切り抜きのコピーがある。

そのコラムには大岡越前守屋敷に関して、次のようなことが書かれている。

「27日の夕、古びた灯篭のある東京・ 霞ヶ関の法務省本館裏にはに、法
務・検察幹部が集まり、由来碑の除幕式が行われた」という内容で、碑文
には 『この灯篭と庭石は大岡越前守上屋敷に置かれていたもので、旧司
法省庁舎建設 (明治28年)の際、屋敷跡から現在地に移転したと伝えら
れる』 と刻まれたとのこと。

この碑を建てるきっかけになったのは、法務省の東側、 日比谷公園寄りに
ある検察庁合同庁舎の敷地が、江戸時代の名奉行 ・大岡越前守上屋
敷だったと、木村栄作・東京地検検事正 (当時)の研究により立証された
ことによる。

歴史に関心のある木村氏は古老の話や古地図、武鑑(江戸時代の大名
・旗本の氏名や系譜、居城、官位、知行、邸宅、家紋などを記した書 )
などを漁って大岡越前守上屋敷跡を考証したそうだ。

この古い切り抜きを頼りに東京地検の広報室に木村検事正の消息を尋
ねたところ、電話をたらい回しにされ、 すったもんだの末に木村氏は退官
して木村法律事務所を開設していることが確かめられた。本来、地検OB
個人の消息は教えられない決まりになっているが、 法律事務所を構えて
いる場合は例外として情報公開しているとのことだった。

突然で、しかも十数年も前の話で恐縮だったが、 木村法律事務所に電
話をかけ、大岡越前守上屋敷跡に灯篭と庭石の他に土蔵が残っていた
記録はないだろうかと訊ねてみた。

小平にかつてあった『範多農園』で唯一現存しているのは、越前さんに縁
のあると伝えられる蔵だけである。 その蔵のルーツについて何か手がかりは
ないかと藁にもすがる思いだった。

木村氏は『大岡越前ゆかりの蔵』については、何も知らないし、聞いたこ
ともないとのことだった。 木村氏によると永田町の大岡越前守上屋敷跡
の他に、赤坂 ・豊川稲荷の向かいに下屋敷があったそうで、 蔵は下屋
敷の方にあった可能性もあるという。

下屋敷の位置はH・ハンターの本拠であった赤坂の『範多事務所』や麻
布宮村(現在:麻布十番)の別宅とも至近距離だ。H・ハンターが通りが
かりに目をつけて譲ってもらうように交渉をしたのではないだろうか。

しかし、木村氏によると 大岡裁きの人気を反映してか、上屋敷の灯篭
や庭石の他にも越前守ゆかりと称するものがあちこちにあり、いずれも信
憑性はイマイチ乏しいという。ショックだが、あり得る話だ!

下屋敷跡は現在も大岡家の子孫が所有しており、大岡家の当主は代
々忠相の忠の字を冠した名前で、都内に在住しているとのこと。こうなっ
たら大岡家のご当主に直接確かめてみるしかあるまい。

ここまでたどり着いたついでに、都内に在住している大岡姓で『忠』の字
がつく人…それだけの手がかりで大岡家の当主探しを始めた。


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