在りし日の姿を求めて 38
小平の範多農園の在りし日の勇姿 7


大岡忠輔氏よりの手紙








小平市鈴木町2丁目の日本植物防疫
協会研究所の敷地内に現存している
白壁の土蔵



昭和14〜15年、範多農園時代の
土蔵と温室

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右に記した土蔵のルーツ追跡から、元範
多農園にあった土蔵は大岡越前守屋敷
そのものにあった蔵ではないが、大岡家に
縁のある蔵であることから、巷では“越前
さんの蔵”と呼び習わされてきたのではな
いかと、私は推量している。
今後、この蔵を解体もしくは移築する機
会があれば、 心柱などに由来に関する
記述が発見されるのではないかと…。



       大岡越前守直系子孫当主からの手紙

元範多農園にあった“越前さんの蔵”ルーツ探しを始めて十数年、古い新聞の
コラムから大岡越前守上屋敷と下屋敷跡を探り当てたが、 この蔵が両屋敷に
あったかどうかは確証がないまま、また数年が経ってしまった。

しかし、“越前さんの蔵”ルーツ探しの末に、現在も越前守直系子孫が東京都
内に在住していることが確かめられた。ご当主は大岡姓で 『忠』 の字を受け継
いでいるとのこと。…それだけの手がかりで大岡家の当主探しを始めて間もなく、
別の件で23区内の個人別電話帳をくっていたら、大岡忠輔氏の名前が目に入
った。


行き当たりばったりのようだが、第六感で何となくこの大岡忠輔氏がご当主では
ないかと…。


大岡家の当主は、ある有名食品メーカーの関連会社の社長をしておられたとの
情報も得ていたので、昭和60年代の企業年鑑でそのメーカーのページを丹念に
調べてみたところ、大岡忠輔氏がその食品メーカー関連会社の社長に就任した
という一行を見つけた。その住所が個人別電話帳の住所と一致した。ヤッター!

こうした手探りの取材には第六感とか嗅覚に助けられることが多い。H・ハンター
の足跡を追う過程で嗅覚だけは発達したように思う。

しかし、直ちに大岡忠輔氏に“越前さんの蔵”について問い合わせる勇気はな
かった。悶々としたあげく、これまでの取材の経緯をありのまま書いて、範多農園
とH・ハンターに関する資料を添えて投函した。

それから1〜2週間後に同封した返信用封筒で、大岡忠輔氏から下記のよう
な丁重な返信が届いて感銘をうけた。越前守譲りの篤実な人柄が伝わってき
た。

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  拝復

 お暑い日々が続いておりますが、ご健勝の事とお喜び申し上げます。
 さて、お問合せの「蔵」の件でありますが、残念乍ら、ご期待に沿えるようなご
 返事はできませんが、小生の知っていることをご参考までに若干記述いたしま
 す。

 お手紙にあったとおり、上屋敷が明治の初めまで、 現在の東京地検合同庁
 舎査の敷地にあり、そこにあった燈篭と庭石が現法務省裏庭へ移転され、元
 東京地検検事正・木村栄作氏がその由来を書かれた石碑が昭和61年に設
 置されました。
 その直後、私共は同氏を訪問し、色々お話したことがあります。

 下屋敷は現在の赤坂1丁目・元赤坂小学校、現豊川稲荷の前あたりにあ
 り、小生の祖父までそこに住んでおり、現在でも若干の土地が継承されてお
 ります。

 しかし、何れについても「蔵」の話は全く聞いたことがありません。
 大岡家は小生の父の時、大正の初めに麻布宮村町(当時の住所表示)に
 居を構え、
昭和14年に現在地に移るまで住んでおりました。そこには大きな
 白い土蔵がありました
が、これは先祖伝来のものではなく、これを移設したと
 云う話を聞いたことがありませんでした。

 と云うような訳で、お尋ねの情報につき、何のお役にも立てず、申し訳ありま
 せん。簡単ながらご回答申し上げます。
                                  草々

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大岡家当主の忠輔氏からも、元範多農園の“越前さんの蔵”のルーツを確証
できる回答は得られなかったが、 大正年間から昭和14年まで大岡家が麻布
宮村町に住んでいて、そこに白い土蔵があったということは、収穫だった。

H・ハンターの別宅があったのも麻布宮村町である。H・ハンター側近の伊藤徳
造さんの話では、麻布宮村町のハンター氏の別宅に移築されるまでも、この蔵
はあちこち転々としたようで、“妾蔵”とか“さすらいの蔵”と呼ばれて一時期、大
岡家にもあったのではないだろうか。ミステリアスを秘めた蔵である。

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