うたかたの如く消えた
      在りし日の姿を求めて R
日本で唯一の錫鉱・見立鉱山



ヤマメの宝庫見立渓谷






選鉱インクライン



H・ハンターが鯛生金山から手を引いて、次に手がけたのは宮崎県北部

山峡にあった見立鉱山の開発事業であった。同鉱山は宮崎、熊本、大

分3県の県境に近く、現在でも秘境とされる日之影町の最奥地にあった。

古い資料によると、「見立鉱山へは延岡から日之影まで18里、さらに日

之影渓谷に沿って険しい山道を遡ること12里。天孫瓊々杵尊(ににぎの

みこと)が降臨した伝えのある高千穂峰や天の岩戸に隣接した神話伝説

の故郷」と書かれている。


見立鉱山の歴史は古く、鉱脈の発見は江戸初期に遡り、本格的に採

掘されるようになった元禄元年 (1688) 当時、この山峡は鉱山夫をはじ

め家族や行商人など多くの人々で賑わい遊郭跡も認められる。

宝暦年間(
1751〜1763)には錫2,000斤(1.2t) を生産したと記録され

ている。その30年後あたりから減産のため中止してまた明治15年頃から

再開され、明治41年(1908)に旧延岡藩主内藤家に買収された複雑な

経緯がある。

大正6年(1917)内藤家によって本格的に操業が開始されたものの、錫

価の暴落で同10年(1921)には休山していた見立鉱山をH・ハンターが

再開に乗り出した。英国人鉱山技師A.R.ワイゴール の調査により将来

性を見込んで、鯛生金山時代の外国人技師8名を見立鉱山に移駐さ

せた。

見立鉱山の再開発にあたって、日之影までの専用道路の拡幅改良工

事を行い、地形その他詳細を16ミリフィルムに映してロンドンの本社に送

り、送鉱ケーブルの配置や選鉱場などの位置規模も本社で検討された。

その設計図に基づいて資材一切もロンドンで調達され、日産20トン能

力の選鉱場を建設。昭和2年11月頃から錫精鉱の生産が再開された。

外国資本で本格的に操業された国内鉱山事業の初めてのケースだった。



A.R.ワイゴール(後列左から2人目)と
見立鉱山従業員
A.R.ワイゴールの見立鉱山報告書 A.R.ワイゴールのサイン

見立鉱山鉱脈の発見

安土桃山時代の天正10年(1583)、織田信長に滅ぼされた甲州武田勝頼

の家臣高見但馬守安利が家族と僚友の馬場新右衛門と共に、諸国を流

浪して日向の国(宮崎県)にたどり着く。

江戸時代寛永3年(1627)に現在の日之影町見立の五葉岳山麓に洞岳鉱

を、同8年に大吹(大福)鉱を開いたと伝えられる。武田一族は採鉱冶金技

術に長けており、見立に鉱脈を発見したと言われている。


『見立』地名の由来

元禄4年(1691)見立鉱山の前身・大吹(大福)鉱山を発見した馬場新右衛

門が大福山を通りかけた時に、見当たり「見立山」と名づけたことから、

『見立』と呼ばれるようになった。


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