うたかたの如く消えた | ![]() |
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赤坂の範多事務所 | |
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赤坂のアメリカ大使館の隣の一等地にあった『範多事務所』が開設されて 間もなくから事務所の2階に寄宿して、H・ハンターのご用係りを務めること になった伊藤徳造さんの話では、1階が事務所で2階はハンター氏個人の スペースになっていました。 洋館のエントランスには、『範多事務所』の看板に並んで『東洋鉱山株式 会社』『龍三鉱業合資会社』『木浦鉱山株式会社』の看板が掲げられて H・ハンターが代表を務めるすべての事業がここで統括されていました。 木 浦鉱山株式会社は東洋鉱山株式会社の姉妹会社でした。 さらに、大正14年7月に日本とラトヴィア共和国との間に通商航海条約が 締結されて、翌15年5月にラトヴィア領事館が設けられると H・ハンターが 名誉総領事に就任することになり、 『ラトヴィア領事館』の看板も掲げられ ました。 ハンター氏がラトヴィア名誉総領事に就任する経緯は、『範多事務所』に 勤務していたB・ヤニカン氏が同国の貴族出身で、秘書として厚遇した関 係からだといわれています。名誉総領事の肩書きを得てハンター氏自身も 外交官特権で外国から取り寄せる物品が減免されるなどの恩恵に与って いたそうです。 その経緯はどうあれ、かつて小平にあった『範多農園』付近の土地の人々 の間で、「H・ハンターはラトヴィアの貿易商」と流布されていた謎が解けま した。ラトヴィア総領事という肩書きから土地の人々には、 そう受け止めら れていたのでしょう。 伊藤さんによると、『範多事務所』の1階は柱や仕切りの壁がなく、「ダン スホールにしたらいい」と言われたくらいモダンで広々としていました。 常時 は外国人秘書と鉱山技師が4~5人に支配人の大蔵国彦氏ら日本人 従業員が10人前後働いていて、 ゆったりとしたオフィスだったと懐かしんで います。
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