うたかたの如く消えた
      在りし日の姿を求めて P
東京へ進出


2004年現在のアメリカ大使館
テロへの警戒が厳しくてこの写真
を撮影するので精一杯。

2004年4月現在、範多事務所
跡地には高層の赤坂インターシ
ティビルが建設中

大正12年アメリカを代表する
建築家フランク・ロイドによって
建設された旧帝国ホテル


アングロ・オリエンタル・マイニング
コーポレーション


ロンドンに本部をおき東洋の鉱山
への投資を目的とした企業。
H・ハンターは役員で株主であった。


鯛生金山の経営に乗り出して数年後、H・ハンターは錫価の暴落で

休山していた宮崎県日之影村の見立錫鉱山の調査を、鯛生金山

の技術部長していたA・R・ワイゴールに依頼。その調査結果に基ずき

新しい鉱山事業に向けて動き始めました。大正13年(1924)には宮

崎県の旧延岡藩主内藤家より、見立錫鉱山と大分県内の木浦鉱

山の鉱山権を取得して、龍三鉱業合資会社を設立。

鯛生金山が最盛期に差し掛かった大正14年に同金山の経営権を

木村
鐐之助氏にそっくり譲り渡しています。木村氏はハンス・ハンター

の父が創業した神戸の範多商会の支配人でした。

H・ハンターの側近だった伊藤徳造さんによると、「金はもう飽きた。誰

もが見放した錫鉱山を手がけてみたい」と話していたそうです。趣味の

ゴルフや蝶の採集、蘭の栽培でもそうですが、 自分が納得するまでは

頂点を目指して全精力を注ぎ込みますが、 その後は破れ傘でも放り

投げるように見向きもしないのがH・ハンターの性格だったようです。

鯛生金山を手放したH・ハンターは 大正14年の6〜7月に大阪から

上京。活動の本拠地を帝国ホテルにおいて 見立鉱山開発のために、

英国のアングロ・オリエンタル・マイニング・コーポレーション の資本を導

入して同社との合弁会社 TOYO.TIN.LIMITED をロンドンに設立。

その子会社として資本金100万円の『東洋鉱山株式会社』も設立し

ています。

この年の暮れに在日米国大使館の隣地、赤坂区榎坂町1番地 (当

時の地番)に白亜の洋館を建てて、H・ハンターが経営するすべての事

業を統括する『範多事務所』を設けました。160坪の敷地に建坪100

坪の総二階建ての瀟洒な洋館は、赤坂界隈でもひときわ目を引いた

そうです。

 

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