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見立鉱山事業 その2 | |
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H・ハンターの経営時代の見立鉱山 昭和2年11月頃から錫精鉱の生産を開始。英国の採鉱技術と最新設備 による近代的な操業が始まった。当初はA.R.ワイゴールを所長に採鉱、選 鉱、分析、経理の責任者は外国人が務め、設備の拡充にともなって昭和6 年には錫精鉱556tの実績を示して量産への道を歩み始め、過疎の山峡は 社宅や従業員の住宅の建設ラッシュで活気づいていった。 東大冶金科を卒業して操業当初から見立鉱山の現場監督を勤めた大久 保安威 (やすたけ=元同和鉱業社長) さんに2000年10月に会う機会が あり、渋谷区西原のお宅を訪ねた。その当時、大久保さんは96歳の高齢だ ったが、毎週、丸の内の『日本工業倶楽部』へ出向き、囲碁やおしゃべりに 半日を過ごしていた。 見立鉱山時代の記憶も確かで「大学を出たばかりの若造にもどんどん仕事 を与え、研究させる自由な雰囲気があり、あそこで学んだことは戦中戦後に 大いに役立ちました。当時の国産の削岩機やブルドーザーはまるで使いもの にならず、米英の機械の威力に驚かせられ、日本の兵器もこれでは駄目だと 軍国主義に傾いていく世情をハンター氏も嘆いていました」。 大久保さんは 大学卒業後、大手鉱業会社に就職が決まっていたが、父親の大久保立(た つ=佐世保・横須賀の海軍工廠造船総監督・貴族院議員)さんから「大手 はつまらんから、もっと冒険をしろ」と言われて見立鉱山を推薦されたそうだ。 当時見立鉱山は国内で唯一の錫鉱山であり、満州事変(昭和6年9月18 日)を契機に富国強兵策や軍需産業の拡大により錫精鉱の需要は増大し ていた。錫はメッキや合金として軍艦の大砲の軸受けや飛行機のプロペラシ ャフトなど兵器に欠かせないという。 その当時、見立鉱山には精錬所がなかったため、鉱石は延岡、門司を経 てはるばるシンガポールとペナン島まで運ばれ、現地の『ストレート・トレーデ ィングcom.とペナン・スメルティングcom.で精錬・製品化して日本に輸入 されていた。両社は見立鉱山(東洋鉱山kk)の親会社アングロ・オリエント・ マイニング社の関係会社であった。 鯛生金山と同様にH・ハンターは見立鉱山にも和洋折衷のクラブハウスを 建設した。ハンター氏が逗留中の宿泊施設であり、社交の場として使われ た。木造平屋ながら、洋式バスや水洗トイレ、スチーム暖房など英国の最 新の住宅設備を備えていた。 |
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