在りし日の姿を求めて 51
H・ハンター亡き後の範多農園 その2 


H・ハンターを終生の恩人とし
て付き添ってきた伊藤徳造さん

伊藤家の囲炉裏の間

範多農園跡地に現存し往時
を留めている白壁の土蔵

かつての大倉高等商業学校
最後にこの範多農園シリーズを始めるきっかけを作り、シリーズにもたびたび
登場して頂いた H・ハンター側近の伊藤徳造さんについてご紹介しておき
ましょう。

伊藤さんは出身地奥日光の有力者・大島久治氏の世話で昭和2年、H
・ハンターの書生となり、赤坂の『範多事務所』で寝起きしながら、大倉高
等商業学校を卒業。大倉高商はその当時、現在のホテルオークラの敷地
内にあり、『範多事務所』とは目と鼻の先で通学には歩いて数分。

伊藤さんが H・ハンターの身近で暮らすようになった頃、 H・ハンターの手
がけた事業は 東洋鉱山をはじめ東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽
部も日の出の勢いで、『範多事務所』は活気に満ちていた。

それから20年、H・ハンターが傷心のうちに息を引き取るまで側近として働
き、範多農園の最後を見届けた数少ない一人で、 90歳を超す現在も、
元範多農園の敷地内で暮らしている。

その伊藤さんの住まいは増改築をしているものの、H・ハンターが農園内に
移築した当時の農家のたたずまいを留めている。

伊藤家でリビングとして使われていた半地下になった部屋は和洋折衷で、
中央に囲炉裏が切ってあった。自然木をそのまま使った梁や柱は黒光りし
て年代を感じさせ、半世紀前にタイムスリップしたような錯覚に陥った。

伊藤さんによると「この囲炉裏の間は先の大戦が始まった当時、軍関係者
がH・ハンターにマレー半島の錫精錬所の操業に関して支援を求めて来た
時の会談に使われました」という。

日本が真珠湾攻撃をしかけた早々、占領した東南アジア一帯は世界一
の錫生産地で、軍需製品に欠かせない錫鉱山・精錬事業について その
実績を持つH・ハンターに協力を求めてきたのではないだろうか。

そんな日本の裏面史も秘めた範多農園の跡地とH・ハンターの足跡を辿
る旅も、ひとまずこの辺で…。

エンディングに当たって、H・ハンターが中禅寺湖畔の千手が浜に最後に
建てた別荘を約2年ぶりに2005年6月に再訪しました。 彼を偲びなが
ら…。そのアルバムを最終回に。


追記:伊藤徳造さんは2006年6月18日、95歳で他界された。
大倉高等商業学校
明治33年(1900)一代で財をなし
た豪商大倉喜八郎が西欧諸国と
並ぶ商業知識・道徳を備える人材
育成のために私財を投じて創立。

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