在りし日の姿を求めて No.50
H・ハンター亡き後の範多農園 その1 


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鈴木街道に面して設けられていた
元範多農園の木戸 

上の木戸のあった付近の
現在の姿

元範多邸の長屋門 
敗戦から2年後の昭和22年9月24日、H・ハンターこと範多範三郎が
この世を去った後の範多農園は・・・ 一口で言えば遺産相続問題とG
HQの取った日本の非軍事・民主化策の柱の一つであった農地改革の
双方で、うたかたの如くに…。

約1万6,000坪の敷地のうち地目が宅地と山林を除く4,000坪あまりは
農地改革の対象となり、農林省から委託された小平地区の農地委員
会により旧地主に優先して払い下げられた。 残りの農地は当時、耕作
に当たっていた3人の従業員に、 農業に専従することを条件等分に割
り当てられた。

宅地と山林約4,000坪はH・ハンターの遺族であった妻きぬ子と娘の光
世がほぼ相続することになったが、 二人では処理できない問題も多かっ
たため、当時、大阪の範多商会の社長を務めていた範多竜平氏の主
催で親族会議が開かれた。

竜平はH・ハンターの長兄龍太郎の長男で、彼の甥。日立造船の前身
を始めとするハンター系企業の創業者のE・H・ハンターと父龍太郎の血
を受け継ぎ、 経営者としての見識を備えた人物であったという。

その竜平氏と範多事務所の支配人であった大蔵国彦氏が委員になり、
H・ハンターの遺産管理委員会が設けられ、きぬ子母娘の将来が保障
できるようにと検討した結果、二人が住める家を再建して残りの土地で
収入の安定をはかるのが最善の道に思われたが…。

しかし、きぬ子は「小平のような田舎に埋もれるのはイヤ!」だと。竜平
氏らの説得に耳を貸さず 「東京の中心地で、もうひと花咲かせたい」と、
花柳界に未練たっぷりであった。実母にもけしかけられていた。

その望み通り、4,000坪あまりの土地は三井系の不動産会社を通して、
そっくり売り払われた。 購入したのは当時の農林省外郭団体である社
団法人・日本植物防疫協会で、 その後、農林省改め農水省の農薬
検査所(2001年から独立行政法人に移行)も、同地に移転してきた。

範多農園跡地が農業関係の研究施設になったことは、H・ハンターに
とって慰めであるかもしれない。が、3人の従業員たちに払い下げられた
農地は、 数年後には引揚者住宅用地に貧していた東京都に売り払
われて、イングランドのカントリーサイドを思わせる農園は跡形もなく消
え去ってしまった!

引揚者住宅はその後、 都営住宅となり、近年、中層のコンクリート棟
に建て変えられ、60年の時の流れをまざまざと感じさせられてしまう。



現在、長屋門跡は独立行政法
人・農薬検査所の門とブロック塀に
 元範多農園母屋の範多邸  範多邸跡には農薬検査所のビルが

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