在りし日の姿を求めて 49
H・ハンターの無情な最期 


曹洞宗総本山・総持寺

範多家の墓 click!

左がH・ハンターが眠る墓で、右が
森家の墓。両家の墓は石原裕次
郎の墓の筋向いにある。

総持寺境内に咲いていた彼岸花
第2次大戦後、駐留軍関係者として来日した欧米人の中には、開戦前
後にH・ハンターの世話を受けた人も少なくなかったが、 戦争は人の醜さ
を浮き彫りにし、人間関係をも引き裂いてしまう。

昭和16年7月に日本国内にある英米両国の資産凍結で、帰国を迫られ
て金銭を用立てたり便宜をはかってもらったが、 戦勝国の人間として再来
日し、H・ハンターの変わり果てた姿を見て知らんふりをしたり、弱みに付け
込んで「預けてあった金があるはずだ」と、あらぬ要求をした人もいたという。

酷なことだがそれが現実かもしれない。洋の東西を問わず…。

そうした人の非情な仕打ちすら理解できないくらいH・ハンターの脳軟化症
が進行してしまっていたのは、近親者にとってはせめてもの慰めだった。

霊南坂の屋敷に同居してすることになった駐留軍の将校夫妻が、H・ハン
ターの境遇に同情して何かと便宜をはかってくれたそうであるが、赤坂に戻
って1年後、昭和22年9月24日、ハンス・ハンターこと範多範三郎は波乱
の人生を終えた。痛切な幕切れだった。享年64歳。

その日の朝、側近の伊藤徳造さんに長女が誕生したそうで、終生の恩人
の臨終にやっと間に合ったそうである。生と死を同時に見た劇的な日だった。

H・ハンターの葬儀は屋敷の近くの霊南坂教会で行われた。日本の近代
化に寄与したハンター財閥の子息であり、彼自身も数々の鉱山業と国際
親善のヒーロー的な存在であったが、時節柄もあって、ごく近親者だけとの
寂しい別れだった。

遺骨はH・ハンターが生前に設けていた川崎市鶴見の総持寺の墓地に埋
葬された。離婚した妻みどりの実家、森家の墓と同じ区画内にあり、範多
家と森家の墓石が並んでいる。みどりの父・森作太郎が他界した折りに、
H・ハンターは森家と共同で墓地を求め、範多家の墓石も用意したという。

元妻と並んで眠っているのは、常識では考えられない光景だが、破天荒に
生きたH・ハンターらしいとも思えなくもない。無二の親友だった元妻の兄・
森恪(つとむ)とも隣り合って草深い墓に眠っている。

彼の死後50年目の命日に訪ねたとき、総持寺の境内には彼岸花が真っ
赤に燃え、筋向いにある石原裕次郎の墓から線香の煙が絶えず流れてく
るのが印象的だった。



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