在りし日の姿を求めて 48
H・ハンターと範多農園の敗戦前後 


H・ハンターが最後に建てた中禅
寺湖畔・千手ケ浜別荘でひととき
を過ごす彼の家族と近親者。
(福田和美氏所蔵)

千手ケ浜別荘の近くに現存している
東京アングリング・エンド・カンツリー
倶楽部レストハウス

H・ハンターが戦後転居した
赤坂の霊南坂。右の白い塀は
アメリカ大使館。

霊南坂教会旧会堂
範多農園母屋がP51戦闘機により、焼夷弾直撃を受けて全焼してから
約2週間後の昭和20年5月8日、 ドイツが無条件降伏。H・ハンターも
母屋の炎上直後に脳軟化症(脳梗塞)で倒れてしまった。

命は取り止めたものの後遺症で心身の憔悴は著しく、ベッドで寝たきり状
態の日々に。当時、吉田茂の主治医を務めていた医師の紹介で、看護
婦が住み込みで世話をしてくれることになったが、 この年の4月から5月に
かけて小平の範多農園と赤坂の範多事務所を立て続けに失ったH・ハン
ターの痛手は大きく身辺は、厳しい状況に…。

周囲の奔走でH・ハンター一家は、ともかく中禅寺湖畔にゲスト用に建て
ていた西一番別荘に逃れるように疎開した。

母屋と主を失った範多農園では、 側近の伊藤徳造さんが7月1日に召
集を受けて宇都宮師団に入営。加藤登一管理人も郷里の福島に疎開
したいと退去してしまったので、その跡目をめぐって醜い争いが起きていた。

その矢先に広島と長崎に原爆が投下され、 8月15日、日本はポツダム
宣言を受諾して無条件降伏を。H・ハンターは西一番の別荘で終戦の
の詔勅を聞くことになった。かつて涙を見せたことのなかった目が潤んでい
たという。

8月末、連合軍総司令官・マッカーサーが厚木飛行場に降り立った日に
部隊が解散して、伊藤徳造さんが範多農園に戻って来た時には、「それ
まで範多農園に縁も所縁も薄い人間が 管理人におさまっており、大きな
顔をしていた」とのこと。

日本全土が無法状態に陥っており、無理からぬこととは言え、H・ハンタ
ーに有形無形の恩恵を受けてきた伊藤徳造さんら身内同様の人間にと
っては腸の煮えくりかえる思いを後々まで引きずることになった。

H・ハンターは約1年、 妻子とともに中禅寺湖畔の別荘で療養を続けて
いたが、 満足な治療が受けられないため、『範多事務所』の大蔵国彦
支配人や側近の伊藤徳造さんらが東京都内に転居先を探していたとき、
幸いにも、後の電通社長の屋敷を譲り受けることができた。

空襲を免れたこの屋敷は赤坂・榎坂の消失した範多事務所とは目と鼻
の先、霊南坂にあり、昭和26年9月にH・ハンターは古巣の赤坂へ戻る
ことができたのだが…。

東京都心はまだ戦災の傷跡が生々しく、インフレと食料難の真っ只中。、
H・ハンター一家が手に入れた屋敷もたちまち、 半分は米軍将校用住
宅として接収されてしまった。彼が以前の彼ならGHQと堂々と渡り合った
に違いないが、当時のH・ハンターは声を失い 翼をもがれたカナリアに等
しかった。



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