在りし日の姿を求めて 47
範多農園母屋の炎上!


昭和20年4月19日の空襲で
炎上した範多農園母屋

母屋と同時に全焼してしまった長屋門

H・ハンターの自室床の間。
矢印で指しているのは鯛生金山
で産出した銀塊。火事場泥棒に
持ち去られたという。

H・ハンターが最も愛していた暖炉の間。


飛び切り高級のペルシャ絨毯も灰に。

昭和20年3月10日・・・東京都内が下町を中心に壊滅的な被害を
受けた東京大空襲の忌まわしい記憶を忘れ得ない人も多いだろう。

午前0時過ぎから約2時間に及ぶ米軍機による超低空空襲はまさ
に“じゅうたん爆撃”そのものだった。

『東京空襲を記録する会』の調査では消失家屋は約27万戸、罹災
者は100万人に達し、死者は10万人にのぼった。

H・ハンターが戦前から最も危惧していたことが現実になってしまった。

それから約1カ月後の4月19日午前9時57分、関東地区に空襲警
報が発令されるなか、B29爆撃機3機とP51戦闘機約20機が伊豆
半島南方から北上してきた。

10時10分、P51戦闘機の少数編隊が京浜地区上空に襲来して、
機銃掃射を開始した。この爆撃によって『範多農園母屋』は焼夷弾
の狙い撃ちを受け、茅葺屋根にブスリブスリと食い込んで炸裂した。

茅葺屋根にとってはひとたまりもない。たちまち厚さ60センチ以上もあ
る茅の層のあちこちから 火の手が上がり、 家屋全体があっという間に
炎に包まれてしまった! H・ハンターと入籍して 間もない妻子たちは
逃げおおせたものの、母屋と長屋門は全焼してしまった。

全く何も持ち出せない状態で、H・ハンターの夢と資産を次ぎ込んだ
調度や書画 骨董もことごとく灰になってしまった。 それらの中には国
宝級の美術品も含まれていたそうである。 彼が長年かけて収集した
貴重な蝶の標本は、 数日後に東大農学部に寄贈する手はずにな
っていたが、残念なことに、それもかなわなかった。

元鈴木新田の範多農園一帯は水の便の悪い地域で、消火活動が
全くできなかった。 地下の倉庫に眠らせていた H・ハンター愛用のス
コッチ:フォーテフィケーションの瓶が熱で破裂して、パーンパーンと音を
立て芳香を放つ中でH・ハンターは呆然と立ち尽くすしかなかった。

焼け跡は1週間から10日はくすぶり続け、母屋の軒先に装飾も兼ね
て積み上げてあった白樺の薪が炭化して炭になっていた。H・ハンター
が英文で書き綴っていた自分史や事業記録もすべては灰に!

警視庁警備課総務係の記録には次のように被害が記されている。



「被害状況追加@4月19日10時10分頃、北多摩郡武蔵野町、小
平町、調布町附近上空ニ小型機延19機来襲、機銃掃射ヲ受け次
の被害ヲ生ズ。A小平町鈴木新田7725番地範多範三郎方2棟全
焼ス」。

        (註:H・ハンターの当時の戸籍名は範多範三郎であった)

数行の記述では、損失規模の大きさも被害額も想像を寄せ付けな
いが、現在の価格に換算すれば十数億円に上るとみられている。
戦後60年の今年(2005年)、その日からも4月19日で60年目を迎え
た。

さらに、その1ヵ月後の空襲で赤坂・榎町にあった『範多事務所』も、灰
燼に帰してしまった。これらの空襲でH・ハンターの足跡も功績も歴史の
谷間に消えてしまったに等しい。


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