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愛人の入籍と失意の日々 | |
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太平洋戦争が激しくなるにつれ、範多農園を訪れる友人も一人去り、二人 去りして、H・ハンターの身辺も次第に寂しくなっていった。 みどり夫人と離婚後、表向きは独身を通していたが、大阪時代から続いてい た愛人の他にも女性関係は色々あったようだが、 麻布宮村の別宅に住まわ せていた松田きぬ子との間には、昭和12年に女児が誕生していた。 きぬ子は赤坂の芸者出身で、母親が芸者置屋をしていたという。その母親が 計算高く後ろで糸を引いて、きぬ子に入れ知恵をするのがH・ハンターには気 に食わなかったが、50代半ばを越して初めて実の娘に恵まれたのは嬉しかった に違いない。 戦況は悪化する一方で、東京都心部もしばしば空襲に見舞われるようにな った昭和17年頃、H・ハンターは母子を範多農園に疎開させている。 きぬ子の母親も一緒に、農園内の別棟に住むようになった。別棟は3棟あり、 いずれも母屋と同時に古い民家を移築した建物だった。その当時、H・ハン ター自身は病がちで、農園の従業員たちには、きぬ子は看護婦として身の回 りの世話をするという触れ込みだった。 そこまで体面にこだわっていたのもH・ハンターのダンディズムかもしれない。しか し、実の娘を人一倍可愛がり、不器用な手つきで抱きしめていたという。 昭和17年6月、ミッドウェー海戦で日本軍が敗北を記して以来、戦局はます ます傾き、19年に入ると、南方沖での日本軍の苦戦が伝わってくるようになり、 明日はどうなるか予測のつかない差し迫った状況から、きぬ子の母親にせっつ かれて、H・ハンターはきぬ子を入籍した。19年5月のことだった。 その日、H・ハンターは「俺一代の限りのつもりだったが・・・」と、複雑な胸中を 漏らし、 一点を見詰めていたそうである。 その姿を側近の伊藤徳造さんは忘 れられないと語っている。 男の建前が尊重され、男性の論理がまかり通った時代でもあった。 |
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