在りし日の姿を求めて 46
愛人の入籍と失意の日々


格式が感じられる
範多農園長屋門


奥日光千手ケ浜別荘に疎開
中のきぬ子さん母子
(前列左)
福田和美著「日光鱒釣紳士物語」より


範多農園母屋

太平洋戦争が激しくなるにつれ、範多農園を訪れる友人も一人去り、二人
去りして、H・ハンターの身辺も次第に寂しくなっていった。

みどり夫人と離婚後、表向きは独身を通していたが、大阪時代から続いてい
た愛人の他にも女性関係は色々あったようだが、 麻布宮村の別宅に住まわ
せていた松田きぬ子との間には、昭和12年に女児が誕生していた。

きぬ子は赤坂の芸者出身で、母親が芸者置屋をしていたという。その母親が
計算高く後ろで糸を引いて、きぬ子に入れ知恵をするのがH・ハンターには気
に食わなかったが、50代半ばを越して初めて実の娘に恵まれたのは嬉しかった
に違いない。

戦況は悪化する一方で、東京都心部もしばしば空襲に見舞われるようにな
った昭和17年頃、H・ハンターは母子を範多農園に疎開させている。

きぬ子の母親も一緒に、農園内の別棟に住むようになった。別棟は3棟あり、
いずれも母屋と同時に古い民家を移築した建物だった。その当時、H・ハン
ター自身は病がちで、農園の従業員たちには、きぬ子は看護婦として身の回
りの世話をするという触れ込みだった。

そこまで体面にこだわっていたのもH・ハンターのダンディズムかもしれない。しか
し、実の娘を人一倍可愛がり、不器用な手つきで抱きしめていたという。

昭和17年6月、ミッドウェー海戦で日本軍が敗北を記して以来、戦局はます
ます傾き、19年に入ると、南方沖での日本軍の苦戦が伝わってくるようになり、
明日はどうなるか予測のつかない差し迫った状況から、きぬ子の母親にせっつ
かれて、H・ハンターはきぬ子を入籍した。19年5月のことだった。

その日、H・ハンターは「俺一代の限りのつもりだったが・・・」と、複雑な胸中を
漏らし、 一点を見詰めていたそうである。 その姿を側近の伊藤徳造さんは忘
れられないと語っている。

男の建前が尊重され、男性の論理がまかり通った時代でもあった。



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