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H・ハンター交友録 その3 | |
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吉田 茂 (1878年〜1967年) 享年90歳 国葬が行われた |
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小平の範多農園の賓客の一人に後に総理大臣に就任した吉田茂がいた。 H・ハンターが同農園に常住し始めた昭和14年(1939)に吉田茂は 日・独・ 伊三国同盟に反対して、 駐英国大使の職を追われ帰国。外交官を辞し て、“浪人”生活を送っていたので、範多農園を訪れる機会も多かった。 明治39年(1906)東大を卒業して、外務省に入省以来外交畑を歩いて来 た吉田茂とH・ハンターの接点は、 ハンターの元妻の兄・森恪(つとむ)を介し て始まったようだ。 森恪は吉田茂の養父・吉田健三(横浜の貿易商で資産家)の面識を得て、 三井物産社員から実業界、政界に転じ昭和初期に政友会に入り、日本の 対中国大陸積極策の急先鋒となった毀誉褒貶の多い人物で、 “政界の風 雲児”と称されていた。 昭和2年(1927)田中義一内閣の外務政務次官として、森恪が対中国積 極策の具体化をはかるためお膳立てした『東方会議』に、吉田茂は奉天総 領事として出席している。 親英米派を通してきた吉田茂がこの『東方会議』をどう受け止めていたのか、 文献を探したものの不明のままであるが、英国の血を受け継ぐH・ハンターとは ウマが合ったのではないだろうか。 H・ハンター側近の伊藤徳造さんによると、「おーい吉田!」「イエス サー」と 互いに気やすく呼び交わして、範多農園2階のゲストルームに宿泊していた という。二人とも「英米を敵に回しては日本の将来はない」と、 持論は一致 していた。 昭和16年12月8日未明、日本軍が真珠湾攻撃して太平洋戦争に突入 してしまうが、吉田茂は日米開戦に反対して、和平工作をしたかどで憲兵 隊ににらまれ投獄された。その頃からH・ハンターは病がちになり、二人の仲 は時代に遠ざけられしまった。 歴史にIf…は許されないが、もし、日米開戦が回避されていたら・・・H・ハ ンターと吉田茂の男の付き合いはどう展開しただろう。 |
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吉田茂の主な履歴
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