在りし日の姿を求めて 44
H・ハンター交友録  その2



H・ハンターの事業協力者
でもあった岸本吉左衛門


現存している丸の内の皇居堀
に面した岸本ビルディング

岸本商店は天保2年、打ち刃物創
業から始まって鉄問屋、製釘、製鉄
の事業、印度製鉄業営んだが、昭
和36年以降の鉄鋼不況により、同
39年大倉商事と合併した。


岸本吉左衛門がパリで買い求めたマネの『口紅』

岸本吉左衛門:明治20年(1887)〜昭和48年(1973) 享年86歳
大阪の老舗鉄商の5代目として生まれた岸本吉左衛門とH・ハンターは
幼馴染だったと思われるが、親交を結んだのはH・ハンターが鯛生金山か
ら手を引き、昭和初期に宮崎・日之影町の見立鉱山開発に乗り出した
頃であった。

鉄商岸本商店は打ち刃物商として天保2年に創業。屋号を 『泉屋』と
称していた。

江戸時代に農業や灌漑土木、建築工事が盛んになり発展したのは鉄
製道具の進歩によるところが多い。

そのような状況を反映して、鉄商は生活になくてはならない存在で、『泉
屋』は砂鉄を木炭で還元する“たたら吹き”で製鉄した和鉄を取り扱って
いた最も古い問屋であった。“たたら吹き”は近世初期の最も洗練された
製鉄法であった。

『泉屋』は明治維新以前から神戸 ・横浜の外国商館を通じて欧米より
鉄鋼製品を購入していた関係で、H・ハンターの父が経営する『範多商
会』『大阪鉄工所』とも取引が盛んだったようである。明治末期、4代目
吉右衛門時代に『岸本商店』と改称。

岸本吉左衛門の自伝『鐡屋のぼんち』によると、H・ハンターを“親愛なる
ハンス”と呼び、快男児であったいう。

H・ハンターは独力で見立の錫鉱山開発を手がけていたが、岸本氏と親
しく付き合うようになって、同鉱山の共同経営の相談を持ちかけたそうだ。

その話に合意した岸本氏とH・ハンターは見立へ鉱山の視察旅行に出掛
けた。昭和2〜3年頃ではないかと思われる。別府で一泊、翌朝宮崎市
を経て見立鉱山にたどり着いたのは夕暮れであった。

交通不便な山奥であったが、鉱山事務所併設のクラブハウス(現在の英
国館) は流石に英国育ちのH・ハンターの趣味嗜好で統一され、山間の
別荘という趣で、まことに愉快な旅行だったそうである。


岸本氏は骨董・絵画コレクターとしても知られ、H・ハンターに劣らず“家
道楽”で、範多農園母屋の建設前後に東京・丸の内の元時事新報ビ
ルをポンと買い求めて、二人は互いの“家道楽”を酒のつまみにしていた。



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