在りし日の姿を求めて 43
H・ハンターの交友録 その1


赤星鉄馬


赤星鉄馬(左)とブラックバス
放流に協力した杉沼忠三


国内でブラックバスが初めて
放流された箱根・芦ノ湖


05年6月施行予定の外来
生物被害防止法関係記事

2005/1/31 読売新聞

大磯の旧赤星家の別荘
 赤星鉄馬:明治16(1883)年〜昭和26(1951)年、享年68歳

明治17年(1882)薩摩藩出身の実業家・赤星弥之助の長男として生まれる。父弥之助は英国の兵器トップメーカー・アームストロング社の代理権を手に入れ、明治政府のご用達となって巨万の富を築いた。一方、古美術のコレクターとしても有名で、海外に流出することを防ぐために金に糸目を付けず美術品を大量に購入した。

父親の財力を背景に長男の鉄馬をはじめ六男の六郎まで揃ってアメリカに留学。明治34年(1873)東京中学を卒業した鉄馬が留学する時、弥之助は「勉強するのは当然だが、何か一つアメリカの文化やスポーツを見に着けてくること」と、厳命。

当時のアメリカでは、日本人といえば安い労働力と見なされがちだったが、弥之助は鉄馬に「日本にもハイソサエティ―に属する人間がいることを、アピールして来い。そのために思いきって遊んで来い」と、月々2000円以上も仕送りしていた。今日の金額にして約2800万円相当の破格の仕送りだった。

ローレンスビル高等学校からペンシルバニア大学に進んだ鉄馬は、当初はホテルから通学し、当時のアメリカでも贅沢品だった自動車を乗りまわすなど、新聞記事になるような武勇伝も残している。父親の期待に違わずよく学び、スポーツ万能、わけてもゲーム・フィッシングとしてブラックバスに夢中に。

ブラックバスは近年、国内の生態系へ被害をもたらす外来種の筆頭に上げられ、河川湖沼で漁業を営む水産業者や環境保護団体と釣魚愛好家たちの間で熾烈な論争の的になっているが、そもそも芦ノ湖へブラックバスを放流したのは赤星鉄馬であった。

鉄馬は明治37年(1904)、父親が47歳で没すると、大学を卒業した鉄馬は帰国して赤星家を継ぎ、大阪の開業医の娘と結婚。政府関係者の視察に随行して、新婚旅行で世界一周した。しばらくは父親の事業を引き継いでいたが、武器商いは肌に合わず、文化面にシフトを変え、日本で最初の学術財団である『啓明会』を設立した。

大正7年の6月22日には箱根・芦ノ湖にブラックバスを初めて放流している。ブラックバスを選んだ理由は、「食べて美味、日本人の嗜好に十分適するもの。これが第一。釣魚として面白く、しかも1年中釣れ、見た目もよく大型に生育する。市場に出して価値のあるもの」として実行に移した。

鉄馬が滞在していた当時のアメリカでは、ブラックバスは特別な貴重魚として扱われ、採取して輸入するのは困難を極めた。1970年代以降、日本国内の河川湖沼で猛繁殖して、生態系を狂わせてしまったのは釣ブームに乗じたマニアたちのマナーを欠いた無許可放流の結果とされているが、2005年6月にブラックバスなど37種の外来生物を規制する法律が施行されることに(右の新聞を参照)。

鉄馬が現在のブラックバス問題を知ったら、残念がることだろう。


鉄馬の弟四郎と六郎は日本の草創期のゴルフ界に大きな功績を残しており、六郎はアマチュアながら日本人で初めて海外トーナメントで優勝している。

麻布鳥居坂にあった邸宅が関東大震災で倒壊したのを機に、武蔵野村吉祥寺1823番地に3000坪を購入して、アメリカから解体して運んだ家を建て移り住んでいた。
   

 

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