うたかたの如く消えた
在りし日の姿を求めて B
蔵のルーツを訪ねて


那須塩原の庄屋を移築した母屋



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日本植物防疫協会研究所に
現存する蔵


範多農園時代の蔵





1988年のたしか旧盆過ぎに “越前さんの蔵”が保存されている日本植物
防疫研究所小平分室資料館の古山清さんを訪ねた。

“越前さんの蔵”は、鈴木町2丁目住宅街の一角にある同研究所小平分
室の敷地内でひっそりとたたずんでいた。鳶色の瓦屋根は晩夏の陽射しを
浴びて濡れたように光っており、蔵の姿形も優美で 深窓の令夫人といった
趣きをしていた。大岡越前守屋敷にあった蔵かどうか…

信憑性はともかく小平近在農家に古くからある土蔵に比べて繊細で、大名
屋敷もしくは高級武家の衣料などを納めていた蔵ではないかと思われた。

鈴木町2丁目住宅街のメーンストリートといっても、幅員4メートル足らずの
路地だが、その路地からも見通せる位置に建っているこの土蔵に、 まず気
づく人はいないだろう。Kさんと一緒でなければ私も見過ごしたに違いない。
それほど目立たない存在の蔵だった


古山さんは同研究所OBで昭和23年(1948) 9月、日本植物防疫協会
の前身である『社団法人農薬協会』の試験研究農場が当地に開設されて
間もなく病理担当として勤務するようになった。
当時周囲は草茫々で人家は数えるほどしかなく、試験場敷地の一角の大
小2棟の温室と白壁造りの土蔵は目立っていた。

戦後の資材不足で施設建設は追いつかず、 いずれも研究施設としてフル
に利用していた。
食糧不足が深刻で農作物の増産が急務の時代にもかかわらず、全国の田
畑は戦時中の酷使と肥料不足で疲弊しており、各種各様の農薬や肥料が
に氾濫。それらの中には成分不足や悪質なものが少なくなかった。

一方、アメリカからDDTやBHC などの殺虫剤や農薬が大量になだれ込んで
きた。その頃、農業に関する団体の整理統合などの動きも活発で、農薬協
会を設立しようとする機運が高まってきた。

昭和21年(1946)7月、農薬による防除の推進や不良農薬の問題解決や
植物防疫の試験研究を目ざして設立発起人会が開かれ、同年9月社団
法人農薬協会が設立認可された。同協会は農薬業界の種々の協議の場
にもなっており、 古山さんら職員は試験栽培や農薬殺虫剤の成分分析
に追われる日々だった。




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