うたかたの如く消えた
在りし日の姿を求めて G
範多姓の由来

ハンス:範三郎ら
兄弟の母愛子

範多姓を継承した
範多龍太郎

神戸市北野のハンター坂
上り口。click here!

ハンター坂を示す標識

ハンス・ハンターの名前を耳にした時から、彼の日本名:
範多範三郎は日
本に帰化した外国人がよく使う当て字に違いないと思い込んでいたが、

名であった!


彼の父
E・H・ハンターは薬種問屋の娘平野愛子との間に3男1女をもう
けている。長男は生後間もなく死亡したため、明治4年に誕生した男児
リチャードを嫡男として、戸籍では母親の姓をとり平野龍太郎と名づけた。

続いて長女ふじ子が誕生。明治17年2月29日にハンス こと範三郎、そ
の下にエドワードこと英徳が生まれたが、いずれも当初は日本国籍で、ふ
じ子が末っ子だった説もある。

閏年の2月29日生まれたハンス範三郎は後に実業家として地歩を固め
てからも、4年に1回めぐってくる誕生日を子供のように楽しみにしていた
そうだ。「俺は4年に一つしか年をとらない」と言って…。

嫡男龍太郎は神戸一中、神戸高等商業講習所(神戸商科大学の前
身)を卒業後、ドイツのオーデルキルヘン中学に留学し、さらにスコットラン
ドのグラスゴー大学で造船工学と土木工学を修めて明治26年(1893)に

帰国。その直後、龍太郎たまたま係累の途絶えていた範多才助なる戸
籍を紹介され、その年明治26年12月31日付けで範多姓を継承して、
範多龍太郎と改名。平野姓を名乗っていた弟妹たちも範多姓に改めら
れた。

旧範多家は河内の元与力の家柄だった。ハンスたちの母愛子は士族出
身の躾の厳しい家柄に育った女性だったという。

その後、『E・Hハンター商会』も合名会社『
範多商会』と改称して、範多
龍太郎が経営を引き継ぎ、明治28年には『大阪鉄工所』の所主にも就
任して、経営の近代化に取り掛かる。

折からの日本は日清戦争をはさんで、船舶の大型化と外洋航路への進
出争いが激化しており、父 E・Hハンター時代の個人経営では乗り切れ
ない諸問題に龍太郎は大胆かつ細心に取り組み、範多家の最盛期を
迎えた。経営者の資質は父親以上で、当時の範多家は神戸市でも一
二を争う資産家に。

龍太郎を知る人の話では、風貌はりりしい英国紳士ながら、ライフスタイ
ルは日本人そのもので、畳に座布団の質素な暮らしを好み、穏やかで
洒脱な人柄だったそうだ。大阪鉄工所の従業員たちを大阪川口の外国
人居留地にあった自邸に招いて、しばしば慰労会を催していた。

神戸一中時代は蹴球(サッカー)選手として活躍したという記録もある。
ところで、次男坊として育ったハンス範三郎の方は…。

ハンスの元で長年働いて来た伊藤徳造さんによると、父親や兄にもまし
て独立心が旺盛で、野心家であった。「技術者タイプの勉強家でしたが
非常に快活な反面、寂しがりやでもありました」





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