うたかたの如く消えた
在りし日の姿を求めて H
語られざるH・ハンターの青少年期


1451年に創建された英国で
4番目に古い
グラスゴー大学。
経済学者のアダム・スミス、蒸
気機関の発明者ジェームス・
ワットも出身者である。


サウスケンジントンにあったかつて
のロンドン王立鉱山学校


蘭栽培していた小平の範多農園
の温室。
範多家の家名を継いで、範多範三郎として育ったハンス・ハンターの青少
年時代の記録は殆どなく、何故かごく親しい人にも語りたがらなかったとい
う。

側近の一人だった伊藤徳造さんは、ハンス・ハンターの口から「7歳で単身
イギリスに留学して、スコットランド最大の都市グラスゴーで育った」と聞いた
ことがあった。

「7歳から英国で育ったので、日本語はしゃべれても読み書きはできない」と
しばしば語っており、ハンス・ハンターはビジネス関係の文書はすべて英語を
を使用しており、日本語の文書は秘書や側近が英語に翻訳していた。

蝶や洋蘭、高山植物、鱒釣り、ハンティング…など、趣味に関する文献や
参考書も英国から取り寄せていたそうだ。

しかし、外務省の記録では日本で小中学校を出たことになっている。そうい
うミステリアスな部分があるのも、私がハンス・ハンターに惹かれた理由かもし
れないが…。

グラスゴーは18世紀の産業革命後、鉄鋼、造船を中心とする重工業で発
展した都市で、13歳年上の兄龍太郎と弟英徳もグラスゴー大学を卒業し
ている。

ハンス・範三郎が7歳で英国に留学したとすると、当時、龍太郎もグラスゴ
ー大学に在学中であり、両親が幼いハンスを渡英させたことも不思議では
ない。

ともかく明治36年(1903)、ハンスは19歳のときロンドンの王立鉱山学校(
Royal School of Mines)に入学、3年間で鉱山学と冶金学を学んだ。

在学中の明治37年から38年にかけて日本は、日露戦争で勝利し、父E
・Hハンターが創設した『大阪鉄工所』は戦需景気で最盛期を迎えていた。

明治35年(1902)には日英同盟も結ばれており、日本が国際的にも認め
られるようになった時代で、ハンスもかなり恵まれた環境で学生生活を送っ
たようだ。

伊藤さんによると、英国紳士の嗜みとされる釣りやハンティング、競馬、博
物学、蘭栽培、美術品の収集などもロンドン時代に身につけたそうで、ハ
ンスはそれぞれに造詣が深く、研究心旺盛だったという。

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