うたかたの如く消えた
在りし日の姿を求めて I
実業家としてのH・ハンターの船出

やっと探しあてたハンス・ハン
ターと蘭の写真。大正初期
に大阪に住んでいた当時。

ハンス・ハンターと親交の
あった加賀正太郎・千代子
夫妻

ハンス・ハンターと親交の親交の
あった加賀正太郎夫妻が、京都
大山崎に建てた大山崎山荘。
現在のアサヒビール大山崎山荘

大山崎山荘の蘭温室
王立鉱山学校(ロイヤル・スクール・オブ・マインズ)に3年間在学中、ハ
ンス・ハンターが学んだのは鉱山学と冶金学で、卒業後ロイヤル・スクー

ル・オブ・マインズ学会、英国地質学会、南洋州採鉱冶金学会、米国
採鉱冶金技術者学会の会員に加わり、明治39〜40年(1906〜1907)

にかけて米国の鉱山と精錬業などを視察。父E・Hハンターの経営する
アンティモニー精錬会社の技術監督としてビルマ(現在のミャンマー)、タ
イ、マレー半島の鉱山を調査して歩き現場実習を積んでいる。

明治42〜43年(1909〜1910) にはロンドンのクロンプトン商会で電気
技師として勤め、在勤中の明治43年4月2日付けで英国籍を取り、こ

の年の暮れに帰国している。
英国名はHANSABURO HUNTERで、そ
の綴りを略した
HANS HUNTERが通称のハンス・ハンターの名前の由来

であるそうだ。要するにハンスは範三郎をアルファベットで書いて略したと
いうわけだ。帰国直前に英国籍を取得したのは、その後英国資本を導
入して事業を起こすことが頭にあったからだろう。

英国籍になって日本に帰国したハンス・ハンターはロイヤル ・スクール・
オブマインズの同窓生たちと 共同で朝鮮雲山郡一帯のの鉱業権を取

得して雲山鉱山、大楡洞金山経営に乗り出した。ドイツ、スペイン、イ
タリア人との共同経営で成功をおさめたという。

その他にも兄龍太郎らと厚昌鉱業(株)、当時の朝鮮の富豪尹(ユン)
一族の子息とソウル・マイニング・カンパニー・リミテッドも共同経営してい

た。尹家の子息とは王立鉱山学校の同窓仲間だった。当時のハンス・
ハンターに関する資料も殆どないが、関西の実業家加賀正太郎や大

阪の老舗鉄鋼商・岸本商店の岸本吉左衛門とは親交があり、
加賀正
太郎夫人の随想
に大正初期のハンス・ハンターの暮らしの一面が偲ば
れる。

加賀夫妻の築き上げた
京都・大山崎山荘はその後、日本の洋蘭のメッ
カと謳われるようになるが、千代子夫人の随想によると加賀正太郎に蘭
栽培を指南したのはハンス・ハンターであった。

しかも英国の最大手種苗業者サンダースから、
ハンス・ハンターと命名さ
れたカトレアがあった!






加賀正太郎のプロフィール

大阪船場の富商加賀商店の長男として明治21年に大阪市東区今橋2丁目で生まれ、

恵まれた経済力と卓越した才能によって証券業や山林経営、土地開発、ゴルフ場設計、

蘭栽培など様々な分野で手腕を発揮した。ニッカウィスキーの創始者の一人でもある。

加賀家は江戸時代から両替商を営み、明治に入ると証券業にも参入。正太郎氏の父市

太郎は辣腕実業家として知られ、加賀商店は業界でも一流となったが、47歳で早逝。正

太郎は12歳のとき家督を相続するが、母の決断で彼が成人するまで店は番頭に委ねた。

やがて、東京高等商業学校に入学した彼は見聞を広めるために欧州遊学。かねてより計

画していたアルプスのユングフラウ (4158m)の登頂に成功。日本人として初の快挙であ

った。イギリス滞在中にキュー・ガーデンなどで蘭栽培を見学し、園芸に深い関心を持つ。

帰国後正太郎は明治44年に学業を終えて大阪に帰り、家業を11年ぶりに再開した。同

時に大山崎の地に広大な土地を買い求め、大正3年には自らの設計管理で山荘の庭園

作りに取り掛かり、蘭栽培も始めた。規模 ・質共に本格的になり、大山崎山荘は西日本

における蘭のメッカとしてその名を轟かせる。ゴルフの才能も人並みはずれ、茨木カンツリー

クラブのコースチェアマンとして活躍した。



モグラ通信フロントへ