在りし日の姿を求めて 26
中禅寺湖畔の宴 その2


 
奥日光の仙人と呼ばれた晩年の
伊藤乙次郎さん



神秘を宿す中禅寺湖


伊藤乙次郎さんが管理していた
レストハウス



颯爽としたH・ハンター
(福田和美氏所蔵)



日光の動植物に詳しかったH・ハンター
昭和4年の夏、中禅寺湖畔で『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部メンバーたちがヨットレースや川で鱒釣りに興じていた頃から日本国内では不況が深刻化。東京帝大の卒業生の就職率が3割に落ち込み『大学は出たけれど・・・』 が流行語になり、巷に失業者があふれ、農村では若い女性が身売りをする悲劇が 後を絶たなくなっていった。

中禅寺湖畔での『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』宴が16ミリフィルムに撮影された2年後の昭和6年9月18日、満州の奉天( 現在の瀋陽)北方の柳条溝で満鉄線爆破事件が起きた。

この事件を中国軍のしわざとしてでっち上げ、満州に駐留する関東軍は軍事行動を開始した。いわゆる満州事変が始まり、軍部が台頭して国内は軍事色を強めていく。

政財界との知己も広がり、各国の短波放送が受信できるオールウェーブラジオを2台も持っていたH・ハンターはいち早く世界の情勢をキャッチして、満州事変直後から米英との戦争が避けられないだろうと早くから予見していたというが、中禅寺湖畔千手ケ浜にあった『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』 レストハウスの管理人をしていた伊藤乙次郎さんの著書『森と湖とケモノたち』に、この当時のH・ハンターのリッチで優雅な暮らしぶりの一端が語られている。

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 H・ハンターのプライベートライフ

      伊藤乙次郎さんの〔森と湖とケモノたち〕より

『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』理事長のハンターさんて人は、それはもう大した金持ちで、日本語は日本人と変わらなかった。英語もイギリス人並みだった。

体格のいい人で酒飲みで、日本が好きで日光が大好きだった。別荘は日光に何軒もあり、大崎に二軒、菖蒲ケ浜にもあり、最後には千手ケ浜養魚場の奥にも建てて、このレストハウスの二階にも専用の広い部屋があって泊まることも。

ハンターさんは泊まるといっても、女中さんからコックさんボーイまで来る。それから二号さんだか何号さんだかも来る。

鉄砲と釣りにかけては世界中を回ったような人で、ヘラジカのような大きいものを狙った。そういう猟をするときはカナダへ。40日もテントを張ったとか。剥製師も連れて行って獲ったところで剥製にしたのを何頭も持っていました。

日本では北海道へ鱒釣りによく行った。私も二三度お供しました。ルアーだのフライはハンターさんから教わりました。釣りでも鉄砲でも私らとは全然スケールが違う。鹿撃ちをしてもメスや小さいオスは撃たない。可愛そうだからと言って。

鹿を獲ってもいいとこは食べない。旨いけど固いあばら骨のところを焼いてしゃぶりながら、ウィスキーを飲む。いいところは犬にやってしまう。犬も好きで色々飼っていた。

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この当時、日光の動植物についてH・ハンターほど詳しい人はいないと言われていたそうで、伊藤乙次郎さんもハンター氏彼から教わることが多かったそうである。

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