在りし日の姿を求めて 27
中禅寺湖畔の楽園に翳り


H・ハンターのセンスで統一
された西六番館の室内
(福田和美氏所蔵)


中禅寺湖畔に停留するヨット



元六番館の船着場跡



昭和6年(1931)という年は『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』
にとってもH・ハンターにとっても大きな節目の年であったように思う。

“夏場は外務省が奥日光に移る” とさえ言われていたが、深刻な昭和不
況に抗せず倶楽部も経費節減のため帝室林野局から借りていた土地約
34万坪のうち、その8割がたの28万坪を返却せざるをえなくなる。

当初、H・ハンターが描いていた壮大なリゾート建設は足踏み状態に。一
方、彼個人の身の回りにも不穏な陰が忍び寄ってきた。H・ハンターを陰
で支えてきた妻みどりの腹違い兄・森恪(つとむ)とは義兄弟を超えた仲で、
互いに“無二の親友”と呼び合っていたが、この頃からハンター氏は彼に複
雑な思いを抱くようになったのではあるまいか…。

森恪は三井物産上海支店に入社後、同天津支店長を経て中国興業の
設立に活躍し、炭鉱、鉱業、製鉄、造船,製塩などを手がけた後に帰国
して政界に転じた人物で、軍の上層部や右翼と太いパイプも持っていた。

中国各地を知り尽くした経験から、満州(中国東北地方)の広大な土地と
豊富な資源に目をつけ、“日本にとって満州は生命線であり、極東進出を
狙うロシアからの防波堤でもある”と中国大陸進出策の急先鋒となっていた。


昭和2年4月に誕生した田中義一内閣で森恪は外務政務次官に就任
する早々、対中国政策を確立するために 『東方会議』をお膳立てした。
満州出兵を正当化した重要な会議で、日中戦争招く足がかりとなった。
欧米各国にその理解を求めるために同倶楽部を利用する腹づもりもあった
ようだ。後に“昭和の風雲児” あるいは “昭和の怪物”といわれた人物で
ある。

また、この前後からH・ハンターとみどり夫妻の仲は冷え切っており、別居状
態が続いていた。

昭和6年に始まった満州事変以後、7年1月には上海事変、関東軍のハ
ルビン占領、満州国建国5・15事件で犬養毅首相の暗殺に乗じてファ
シズムが台頭。

軍国化に歯止め目がかからなくなっていく時勢の中で、日英の血を分け持
つH・ハンターは日本の孤立化を憂慮していた。福田和美著『日光鱒釣り
紳士録』によると、昭和7年6月、サー・フランシス・リンドリ駐日英国特命
全権大使一行を中禅寺湖や北海道まで鱒釣りに招待するなど日英関係
の悪化を食い止めようとしていた。当時、リンドリ大使は満州事変を中心と
した日英関係の調整に奔走していた。

こうして軍国化への傾斜は強まる一途の昭和7年暮れに森恪が肺炎で急
死した。49歳の若さだった。政財界に強い影響力を持っていた義兄を失っ
たことはH・ハンターにとって大きな痛手ではあったが、身内の争いをせずに
済んでホッとしたのではあるまいか。


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