在りし日の姿を求めて 28
中禅寺湖畔の宴の後 1


六番館跡は公園に整備され『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』の足
跡を偲ぶ看板がもうけられていた。

中禅寺湖畔を望む大崎の六番館
敷地跡

六番館を象徴していたメインホール
の暖炉だけは元の姿で。
昭和8年ドイツではヒトラー総統のナチス独裁政権が誕生。日本、ドイツ
イタリアが国際連盟から脱退して、日独伊3国同盟が結ばれるに及んで、
H・ハンターはますます深酒するようになり、側近の伊藤徳造さんらの前で
も、「日本はいったい何を考えているんだ!欧米を敵に回して勝てるわけが
ない」と、漏らす姿も見られるようになった。

奥日光の住民らも湖畔別荘の外交官たちによそよそしい態度をとるように
なっていたが、H・ハンターはこの年の夏には、カーマス式20馬力モーターボ
ートを地元企業の『昇山モーターボート株式会社』に譲渡。翌年8月には
33年式フォード70馬力も同社に譲渡。これらの高速艇は後に陸軍に接
収され中国大陸で偵察用船艇として活躍した。

この前後にみどり夫人と離婚。「互いに譲らない性格が夫婦の溝を深めて、
関係修復は難しかかった」という。麹町中六番に設けていた屋敷を彼女に
与え、ハンター氏は赤坂の『範多事務所』の二階に移り住んだ。

国際関係がズタズタになり、『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』
も低迷を続ける中で、昭和10年に入ると名誉会員の久慈侯爵が死去し、
秩父宮も陸軍第8師団第31連隊大隊長として青森に赴任。立て続けに
皇族会員を失ってしまった。その失意を払いのけるようにH・ハンターは北海
道静内に鱒釣り用のプライベートな別荘を建てたが、一切の事業から手を
引く準備に入る。

その潔さと手際の鮮やかさに周囲は驚いたようだが…、英国のジェントル層
は、功なり妙を遂げた後はカントリーサイドで田園生活を送るのを理想とす
る伝統がある。マインドは生粋の英国人以上に英国的だったH・ハンターは
隠遁生活を送るに相応しい土地を探し始めた。

そこに持ち上がったのが小金井のゴルフ場建設で、H・ハンターも発起人と
なり、昭和11年頃から開始されたゴルフ場の敷地買収と平行して彼個人
の土地購入して建設をしたのが『範多農園』であった。

その後、『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』は突然の不幸に襲
われた。昭和15年の8月17日の深夜、『西六番館』で催されたダンスパー
ティの終了後、電源を切り忘れた大型蓄音機の加熱から出火。H・ハンタ
ーや宿泊客、使用人らは懸命に消火に努めたが火の勢いはすさまじく、た
ちまち建物は炎に包まれて全焼してしまった。怪我人がいなかったのがせめ
てもの救いだった。




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