在りし日の姿を求めて 29
中禅寺湖畔の宴の後 2


元範多農園周辺図

小平鈴木新田に昭和12〜13年開設
された当時の範多農園見取り図

□で囲ってあるのは現況の建物位置



鈴木街道から範多農園への
アプローチ今昔
現在の鈴木町2丁目772番地
住宅地内のメイン道路

上の写真のマンホールに設けて
あった範多農園入り口の門

範多農園母屋への入り口に設けた
長屋門

現在、都営鈴木町2丁目
アパートに変貌している
元範多農園の農地

元範多農園の裏木戸があった
付近は現在住宅地に

範多農園宅地部分に移築され
た那須塩原の庄屋
激動の10年
 
 日独伊三国軍事同盟調印直前の昭和15年8月に『西六番館』が失火で全
  焼したのは、東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部の終末を象徴するよう
な事件であったが、満州事変を契機に中国での抗日運動が激化。 日中全
面戦戦争。さらに世界大戦へと日本が破滅の道をたどる昭和10年前後から
16年12月8日の真珠湾攻撃(太平洋戦争開戦)に至るまでの5年余は、
H・ハンターにとっても激動の日々であった。

  この間、母や兄など肉親との死別・別離に加えて多岐にわたる事業の整理を
決断し、平行して隠遁生活を送る準備を進めている。

  この5年余のH・ハンターできる限り資料を集めて彼の年譜を作成してみました。

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昭和10年
(1935)
東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部名誉会員の久慈侯爵死去/秩父宮陸軍第8師団第31連隊大隊長として 青森に赴任のため同倶楽部を離脱/同倶楽部は昭和5年に実施した借地返還に続き千手ケ浜見張り番小屋の敷地1畝返還。奥日光での同倶楽部活動が低迷する中で H・ハンターは御料牧場のある北海道静内に新冠川での釣り用のプライベートな別荘を建設。

昭和11年
(1936)






2月26日早朝、陸軍幕僚たちの横暴と軍部と結託している財閥その援護下にある政党の腐敗に対して、国の行く末を案じる青年将校たちが決起した『2・26事件』で、軍国主義はますます決定的に/H・ハンターは事件当日は宮崎・見立鉱山に逗留中だったが、赤坂榎町の『範多事務所』も戒厳令下で一時封鎖された。

11月10日
長兄の範多龍太郎が別府で死去 65歳だった。日本語の読み書きができないH・ハンターが東京進出にあたり、 13歳年上だった龍太郎は大阪の 『範多商会』から信頼のおける大倉国彦氏を支配人として派遣するなど、 頼りになる相談相手であった。

11月龍太郎の他界と前後して『小金井カントリー倶楽部』が創設された。創設者はへーゲン・ゴルフクラブの輸入元 ・深川商会の深川喜一氏で、 芝商の仲介で東京郊外の鈴木新田に敷地を決定。深川氏とH・ハンターの結びつきは不明だが、同カントリー倶楽部の発起人の一人になり、 ゴルフ場の敷地約15万坪の買収と平行してハンター個人の別荘と農園用地買収を進めている。近い将来世界規模の戦争が始まると予測して、戦時下の食糧不足に備えるためであった。現在小平市鈴木町2丁目772番地一帯1万6,000坪の買収地は農村不況の折りから 坪1円50銭〜4円50銭という価格でまとまったという。
                             
昭和12年
(1937)
7月7日北京郊外の盧溝橋事件に端を発して日中は全面戦争に突入/H・ハンターは農園用地を確保するのと同時進行で日本古来の茅葺屋根の家屋を探し始めた。 関東一円を自ら歩くとともに人づてに情報も求めた結果、 栃木県の塩原に元庄屋の建物が残っていると聞いて足を運んだ。江戸時代に建てられと思われる豪壮な家屋に惚れ込んで、購入の手はずを整え東京・深川の桑原という棟梁に解体から運搬、小平への移築一切を請け負わせて 『範多農園』建設に取り掛かった。 1万6,000坪のうち4,000坪を宅地用地に、 残り1万2,000坪には土壌改良を施して 英国のカントリーサイドに見られる農園の造成にとりかかった。

昭和13年
(1938)
H・ハンターは茨城県萩原にアントニン・レイモンド事務所設計の別荘を設けて、 竹田宮や習志野騎兵学校教官の西竹一男爵(ロサンゼルス五輪 乗馬の金メダリスト)らの戦地への壮行会をかねて鴨猟を催した。 同別荘は太平洋戦争中には野戦病院として陸軍に接収された。

昭和14年
(1939)
H・ハンターは中禅寺湖畔歌ケ浜に同地5軒目の別荘を建設。この別荘は岸本家の別荘として現存している/天津のイギリス租界で検挙された抗日テロ活動家の引渡しを巡って日英の感情的な対立が生じた。松平恒雄宮内大臣や吉田茂駐英大使らが仲介に奔走したが、7月に開かれた日英東京会議は物別れに/東京を中心に英国排斥市民大会や反英市民大会が相次ぎ地方にも波及/9月ドイツがポーランド侵攻・第2次世界大戦に突入。
その前日の8月31日、神戸に住んでいたH・ハンターの
母愛子が他界、89歳だった。愛子は晩年まで月に一度は寝台車で上京して、H・ハンターの身辺を気遣っていた。 地元神戸では婦人会の会長を務め世話好きな人柄だった。

昭和15年
(1940)
戦時色が濃くなるにつれ国内の鉱山開発が促され、宮崎見立鉱山の関連事業として大分県内に木浦鉱山を開発。 大分市に錫精錬所も建設。錫精鉱の採鉱から選鉱、精錬を一貫して操業できることになった/8月17日深夜、 中善寺湖畔の『西六番館』が失火から全焼。焼け残った家財は新築したばかりの歌ケ浜の別荘に運び、修築に取り掛かったが再建はかなわなかった/ H・ハンターはこの火災で消火や荷物の搬出に協力してくれた地元中禅寺消防団に米国製のガソリンエンジン付き自動消火ポンプを寄贈。

火災の直後の9月3日、ドイツと密約を交わしてソビエト連邦がラトヴィアに軍を進め、 駐日ソ連邦大使館内にラトヴィア領事館を設けたため、赤坂の範多事務所に設置されていた同国領事館は閉鎖。名誉総領事の地位を失ったH・ハンターは英国籍のまま日本に留まることは難しくなる/ 英国移住するか 日本国籍に戻すか苦慮した末、 10月1日第5回国勢調査が実施されたおりに弁護士を通して
日本国籍の回復届けを提出/10月3日 受理され『範多範三郎』に改名する手続きを行い5日に受理された。

『東洋鉱山』も英国資本の下では経営不可能になり、外国人技術者らは相次いで帰国。H・ハンターは経営を退き 『ラサ工業』の傘下に入れて、英本国、米国、カナダなどに散在していた貸借関係と財産整理にあたり 一切の事業から身を引いて
小平に設けた『範多農園』で隠遁生活に入った。

この前後にH・ハンターの
実弟・英徳とその妻エリザベスが相次いで他界。英徳は英国留学から帰国後、 原宿の表参道に広い屋敷を設け、虎ノ門で『英徳商会』を営み蒸気自動車や電気自動車木炭自動車を販売していた。     
昭和16年
(1941)
3月1日国民学校令公布/4月1日生活必需物資統制令/6月大都市で米穀配給制/7月26日 米英が両国内の日本資産を凍結したのに対抗して、日本も米英の国内資産を封鎖した。米英人の別荘も取り上げられ、H・ハンターが危惧していた最悪の成り行きになり、米、英、中、蘭による対日包囲網が成立。米国からの石油輸入が断たれる/12月8日日本軍がハワイ真珠湾を奇襲した戦後から、 H・ハンター改め範多範三郎は積年の心労と深酒から病がちになる/東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部は警視庁により活動の全面停止と解散を勧告される。

昭和17年
(1942)
範多範三郎は麻布宮村町の別宅に住まわせていた松田きぬ子と二人の間にできた娘光世を小平の範多農園に住まわせて、療養生活に入る。
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範多範三郎の名前に戻って 小平の範多農園で自給自足に近い生活に入った
H・ハンターだが、その農園は多岐にわたる事業を整理した資産を次ぎ込み、当
時の金で50万円は下らないだろうと言われている。その当時、大手町の時事新
報の建物(現在の岸本ビル)が45万円で売り出されていたそうだ。

 

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