在りし日の姿を求めて 30




No.1
2003年9月



大正末期から昭和初期にかけて、H・ハンターが奥日光中禅寺湖畔に国際的な

リゾート建設の夢を抱いて創設した『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』

在日外交官や皇族、政財界を代表するメンバーによって華々しくスタートを切った

が、軍国主義に傾き世界から孤立していった時代に彼の夢は踏み潰されてしまっ

た。太平洋戦争開始直前、失火から全焼したまま解散命令を受け同倶楽部の

存在自体も埋もれたまま半世紀余り経た今日、再び脚光を浴びそのクラブハウス

『西六番館』跡は公園として整備され、H・ハンターと親交のあったイタリア大使の

館も修復されて公開されている。昨年(2003)9月友人と二人でH・ハンターの夢

路の跡を訪ねた。




若き日のH・ハンター

幸の湖や夢路が跡のキツリフネ

9月半ばの西六番館』跡地にはキツリフネ
が揺れていた。釣りを愛したH・ハンターの
忘れ形見に思えて感慨深かった。

明治天皇が奥日光を行幸された時、中
禅寺湖の恵みの豊かさに『幸の湖』と命
名されたという。


『東京アングリング・エンド・カンツリー
倶楽部』と『西六番館』の由来を記
した表示板

火災で唯一焼け残ったメインホール
の石造りの暖炉が往時を偲ばせた。

訪ねた初日は深い霧に包まれて、
モノクロ映画の回想シーンさながら
にロマンティック!


中禅寺湖面に通じる石垣と石段
も在りし日の姿で


千手ガ浜の釣り場への送迎用に
用いられていたモーターボート乗
り場付近

50〜60センチ厚みの石で造られて
いた冷蔵庫室。3畳くらいの広さで
石の保温効果を利用

『西六番館』正門の巨大な門柱。
ここから車寄せに通じていた。

半島のように突き出ていた地形から
『大崎』と称された西六番館跡地。

中禅寺湖に面した『西六番館』の
ポーチ。特製のタイルが敷かれてい
た。



200坪もの建坪があった在りし日の六番館見取り図
在りし日の範多農園トップへ