うたかたの如く消えた
在りし日の姿を求めて F
日本の近代化に貢献したハンス・ハンターの父


E・H・ハンター


国指定重要文化財 旧ハンター住宅


神戸市王子動物公園の一角に移築
されている旧ハンター住宅

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2003年11月撮影


安治川河口にあった大阪鉄工所


異人館めぐりで人気の高い神戸市北野街にハンター坂という坂がある。北野

坂の一本西側の通りだったと思う。この坂の高台にハンス・ハンターの父エドワ

ード・ハズレット・ハンター(E・H・ハンター) が明治20年代に設けたコロニアル

式洋館があり、三宮駅からこの高台までの通りもE・H・ハンターが馬車が通行

できるように整備して神戸市に寄贈した名残を留める坂道だ。

ハンター坂に由来するハンター邸は神戸でも最大級の洋館で、 その後ハンタ

ー家の手を離れたが、保存を求める人々の運動で昭和38年に神戸市王子

動物公園の一角に移築され、『旧ハンター住宅』として昭和41年6月に国の

重要文化財に指定されている。


E・H・ハンターは北アイルランド出身で幕末に来日。横浜で貿易事業に携わ

った後、神戸に移住して外国人居留地で『E・H・ハンター商会』創設した。

主に建築材料や機械、工具、塗料などを取り扱っており、明治10年2月に

始まった西南戦争で西郷軍の軍需物資を取扱い財政基盤を固めたという。

しかしE・H・ハンターは日本が英国と同じく四面を海に囲まれた島国であるこ

とに着目をして、海運業の基礎となる造船業を起こそうと明治14年(1881)

4月に大阪の安治川河口に『大阪鉄工所』を創設した。船舶の建造・修理

のみでなく陸用機関機器、橋梁の製作も手がけて明治40年前後には三菱、

川崎に次ぐ日本三大造船所に成長し、後に同鉄工所は日立造船へと発展

を遂げている。

E・H・ハンターは大阪に移住した頃から、外国人居留地に出入りしていた薬

種問屋の娘平野愛子と家庭を持ち、日本に永住する決心を固めると同時に

日本の将来を考えて鉄工と造船業の他にも、煉瓦や肥料、煙草、精米、損

害保険など様々な事業を起こした。「外国から買っていたのでは 日本の発展

の妨げになる」というのがE・H・ハンターの口癖だった。また造船場で働く工員た

ちの危険性を日々目の当たりにして、日本で初めて障害保険を導入した。

「工員たちの怪我や病気で労働力が低下すれば、事業の安全経営も望めな

い」という企業理念の持ち主だった。

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E・H・ハンターに関する記録

ジョーン・ハンターの第七子として1843年2月3日、アイルランド北部のロンドンデリーに生
まれている。アングロサクソン系の血を引き、生まれつき利発で冒険心に富み大志を抱いて
海外雄飛に燃えていた少年だった。

20歳の頃、憧れていたアジアを目指して帆船に便乗して、オーストラリア、香港、上海を経
て慶応元年(1865)単身横浜に上陸したと記録されている。

この当時の日本は嘉永6年(1853)にペリーの黒船来航で開港を迫られ、翌安政元年(1
654)に日米和親条約、同5年には日米修好通商条約を初めとする『安政5ヶ国条約』

に調印して、徳川幕府は統治能力を失い薩長を中心とする倒幕派が優勢になっていた、
いわゆる幕末の動乱期であった。

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E・Hハンターは数多くの基幹産業を盛り立てると同時に、神戸市発展のため公共事業に
も貢献。幕末に結ばれた不平等条約の改正も英国本国に働きかけるなど、力を尽くした。

日本の近代化に長年尽くした功績により、明治42年(1909)勲5等双光旭日章を贈られて
いる。当時の外国人としては破格の栄誉だった。

晩年は神戸市北野町3丁目の高台のハンター邸で余生を静かに送り、大正6年6月心臓
麻痺で他界した。享年74歳だった。