うたかたの如く消えた
在りし日の姿を求めて E
ハンス・ハンターの輪郭


昭和初期、中善寺湖畔で集う
在日外交官ファミリー。
外務省が移転したみたいだとも。
(福田和美氏所蔵)

白い帆を立てて中禅寺湖で繰り
広げられたヨットレース。
(福田和美氏所蔵)

鯛生金山矢部精錬所


見立鉱山精錬所
ハンス・ハンターは、明治17年(1884)、アイルランド系英国人実業家 E・H
ハンターと和歌山出身の薬種問屋の娘、平野愛子の次男で神戸に育ち 7

歳でイギリスに留学。グラスゴーで青少年期をすごした後、 19歳から3年間
ロンドンのRoyal School of Mines(王立鉱山学校)で冶金学を修めた。

同鉱山学校は鉱山関係の最高レベルの専門学校で ハンス・ハンターは卒
業後、米国各地の鉱山を視察した後、同窓生仲間と朝鮮でソウル マイニ

ングの経営に参加して金鉱山で成功を遂げた。明治末期に日本に帰国し
大分・鯛生金山宮崎・見立錫鉱山などの開発・経営に手腕を発揮す

る一方、 本拠地を東京に移して中禅寺湖のリゾート計画にも着手した。
東京で本拠地としたのが赤坂のアメリカ大使館の隣に設けた『範多事務所

』で、伊藤徳造さんはその務所で長年働いてきた人だった。いわば“生き証
人”であった。伊藤さんのような人に出会えたことはラッキーとしか言いようが
ない。

伊藤さんによると鯛王金山は最盛期には東洋一の金の産出量を誇り、見
立鉱山は日本では唯一の錫鉱山で日本の鉱山開発と近代化に寄与し、
鉱山事業と平行してハンター氏は奥日光中善寺湖畔に鱒釣りを中心とし
た会員制の『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』 を大正末から昭

和初期に設立した。在日外交官や日本の上流階級の紳士的な社交の場
として設けた
同倶楽部は秩父宮、東久邇宮、朝香宮を賛助会員に、代表
は佐賀藩主の家柄の鍋島直映(なおみつ)公爵、会長は時の加藤高明首
相、副会長には三菱財閥の岩崎小弥太男爵、会員には後の日銀総裁土
方久徴、古河財閥の古河虎之助男爵、樺山愛輔伯爵ら錚々たる人たち
が名を連ねて、ハンター氏の社会的地位と交際の広さを物語っている。

中善寺湖畔大崎にあった元トーマス・グラバーの別荘を譲り受け、改築して
『西六番館』と称してハンター氏は夏場を過ごし、『東京アングリング・エンド
・カンツリー倶楽部』 のクラブハウスも兼ね、中禅寺湖畔で鱒の養殖も手が
けていた。

中善寺湖尻
出身でハンター氏の書生として、『範多事務所』で寝起きし
身近に接してきた伊藤徳造さんの話では、ハンス・ハンターはとにかくスケー
ルがでかく
、事業も遊びや趣味にも全力を注いで最高のものを求めたという。

見果てぬ夢を追い続けたハンス・ハンターの縁の地をたどる私の旅はこの時
から始まった。…が、彼を知る人はごく少なく、足跡も風化しており立ち往生
したまま年月ばかりが過ぎて行った。

 ☆モグラ通信フロントへ