2000年11月鯛生金山跡を訪ねてNo.1


「鉱山技師にとって金山は何よりも魅力である。鉱山学を学んできた人間にとって、

まず金山を求めるのが当然である」・・・・・・ 
H・ハンター


ミレニアムという言葉が氾濫した2000年の晩秋、H・ハンターが国内で最初に

手がけた鯛生金山の跡を訪ねました。福岡空港から高速バスで日田バスター

ミナルまで1時間半→日田交通バスで中津江村入り口まで1時間余→中津

江村営バスで約40分→鯛生金山地底博物館というルートの一人旅で、各バ

スとも一日に数本しかなく、勝手の分からない土地でバスを乗り継ぎ乗り継ぎ

辿りついた秘境の村のそのまた秘境の地でした。


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中津江村の入り口にある下筌湖(下筌ダム貯水池)



鯛生金山の位置する大分県日田郡中津江村はその後2002年のサッカーワールド

カップの折り、カメルーンの選手団のキャンプ地となり、選手と村人との熱い交流で一

躍全国にその名を知られるようになった村です。そこにかつて東洋一の金の産出量

を誇った鯛生金山の坑道が地底博物館として昭和58年から公開されています。


H・ハンター経営時代の鯛生金山の隆盛


大正7年(1918)に鯛生金山を取得したH・ハンターは同年6月に資本

金100万円で鯛生金山株式会社(TAIO GOLD MINES CO.LTD.)

を設立。旧鯛生野鉱山から鯛生金山に改名して英国から技師数名

を招き近代的な設備を導入して操業を開始しています。

削岩機をはじめ立て抗エレベーター、選鉱場、精錬所、火力発電所にも

英国製の最新設備が備えられ英国人技師たちがそれぞれの専門分野に

おいて採掘の科学的な研究や精錬の技術研究、鉱脈の探索など画期

的な鉱山事業が九州の山奥で始まりました。

時を得ずして爆破の後にスケールの大きな砂金窟が見つかり、有望な鉱

脈も発見されて鯛生金山は一躍脚光を浴びるようになりました。鯛生野

時代は 年産50〜60キロだった金の産出量も大正7年には90キロ、10

年には500キロ、13年には1トンにも達しています。

ゴールドラッシュに沸く金山周辺には職員の社交場のクラブハウスや病院

売店、浴場など山村には珍しい近代的な建物や施設が立ち並ぶように

なりました。現在、中津江村の人口は1,300人あまりですが、大正10年

には7,500人を上回り昼間の人口は1万人を超えていました。

職員の社交場だったクラブハウス
H・ハンターの宿所でもあった。
最盛期の昭和14年に完成した
矢部精錬所
現在は鯛生焼きの窯場として
使用されている鯛生精錬所
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