うたかたの如く消えた
在りし日の姿を求めて L
H・ハンターの結婚と鯛生金山の操業


ハンス・ハンターとみどり夫人


鯛生金山坑道に立つ主任技師
A.R.ワイゴール(右端)

鯛生金山坑道入り口
ハンス・ハンターが国内で最初に手がけた彼自身の事業は大分・福岡・熊本
の3県の県境にある
鯛生金山であった。

朝鮮で金山経営を成功させて日本に帰国した明治末期から大正初期にか
けてH・ハンターは、ロイヤル・スクール・オブ・マインズ同窓の鉱山技師たちに

全国の鉱山を調べさせたり、 彼自身も趣味の渓流釣りを楽しみながら金山
の情報を集め探索して歩いたという。

その結果、有望な鉱脈であると目を付けたのが鯛生金山であった。 同金山
は行商人が道端で拾った石ころが金鉱脈の発見につながり、地元の有力者

らの共同出資で明治31年(1898)から採掘され、年々産出量は伸びていた
が、技術不足と機械力が追いついていなかった。坑道が深くなるにつれ湧水

が多くなり排水に立ち往生。明治末年頃から電力モーターで揚水をしていた
ものの、採掘は手掘りであった。辺境地のため資材の輸送や生産コストもか

さみ資金難に陥っていた。H・ハンターからの譲渡交渉は渡りに船だったよう
で、大正7年鉱業権が譲渡されている。

当時、H・ハンターは英国籍になっていたためか、兄龍太郎が社主をしてい
た大阪鉄工所の顧問弁護士 ・
森作太郎外一名の名義で鯛生金山の鉱

業権が譲渡されている。外一名がH・ハンターではないだろうか。一説による
と、元株主たちは鉱業権を6万円で譲渡することにしていたが、双方の言葉

がよく通じなかったせいか一桁多い60万円で契約が成立。そのため元株主
たちは莫大な金を得て踊り上がったという話である。

鯛王金山の譲渡交渉を進める一方で、 H・ハンターは大正5年前後に森
作太郎の娘
みどりと結婚大阪で世帯を持っている。彼より11歳年下のふ
っくらした美人であった。

みどり夫人の父森作太郎は元判事で大阪市議会議長を歴任するなど関
西政界の実力者であった。その息子
森恪(つとむ)は三井物産社員から実

業界に入り中国各地で炭鉱、鉱業、製鉄、造船、製塩業などを経営。さ
らに政界に転じて政友会の代議士となり、 田中義一内閣時代に外務政
務次官を務め政界の風雲児といわれた人物である。







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