2000年11月鯛生金山跡を訪ねてNo.2

H・ハンター経営時代の鯛生金山
中津江村在住の松本恒平氏著『鯛生金山史』によると

H・ハンターが経営するようになった大正7年当時の鯛生金山の坑区の面積は

少なくとも40万坪はあったと推測されます。当初鉱脈は北から2号脈、3号脈、

4号脈とされいずれも有望で、特に3号と4号は上下450メートルもありました。

松本さんは元中津江村役場職員で、同村百周年の記念事業としてまとめられ

た『中津江村史』の編纂委員。金山の入り口の鯛生集落に小学校入学前か

ら住んでおり、金山の最盛期も自分の目でみておられます。




 鯛生金山鉱床図(左)と坑内断面図

2〜4号脈と第2〜4立坑以外は
H・ハンター経営の時代以降に採
掘・増設された。

日本橋三越の商品が並んでいた金山の売店

削岩機をはじめ立て抗エレベーター、選鉱場、精錬所、火力発電所にも

英国製の最新設備が備えられた他にH・ハンター時代になって火薬も使

われ、動力ポンプによる排水で作業能率は飛躍的にアップしています。

ハンター氏が大阪に帰省中はデーヴィッドやストラック、トムスンといった英

国人外国人技師らの研究・指導によって操業されていました。外国人用

の住宅も3戸周囲の松林の中に建てられ、 金の生産量が伸びるにつれ

て近代的な社員住宅、工員住宅も建設されていきました。金山景気を

反映して労働者も高収入で、売店には日本橋三越から直接取り寄せた

最新の商品が並んでいたそうです。 その噂を聞きつけ日田や博多からも

はるばる山奥の売店まで買い物に来る人も多かったとか。

松本さんが中津江村に転居して鯛生小学校に入学したのは昭和12年

でしたが、2階建ての大きな新校舎で教室には所狭しと机椅子が並び、

男女別々の教室で方言も様々で児童数が700人もいたそうです。 その

頃は英国人技術者だけでなく米、仏、露、中など各国人が働いており、

国際色豊かで金山景気が第2次世界大戦前まで続いておりました。


鉱石運搬用蓄電式機関車
フォード型ガソリン機関車も
使用されていた。
水平の採鉱坑道は落盤を防ぐ
ために太い丸太で固定されてい
た。広い部分は幅3〜4m以上
鯛生精錬所内に設置されてい
た最新の機械類

現在『地底博物館 鯛生金山』として公開されている採掘坑道と精錬所跡で


最盛期に金山を手放して錫鉱山に着手したH・ハンター

大正7年(1918)にH・ハンターが経営するようになって以来、下図表のように

順調に金銀の産出を伸ばし続けて金山への物資運搬、製品の輸送ルートも

当初の久留米・黒木・矢部方面に加えて日田方面への道も開かれ精錬済

みの製品は3台の自動車と百数十輌の荷馬車が往復して、黒木と日田には

出張所が設けられました。

しかし、その後新鉱床の発見がなく公害問題が発生したのを期に、H・ハンター

は新たな錫鉱山の事業展開に向けて動き始めました。 大正14年に鯛生金山

の鉱山権と経営権は兄の範多商会の総支配人をしていた木村鐐之助氏に譲

り渡しています。年1トンもの金を産し日本屈指の鯛生金山を僅か7年で未練

もなく手放した理由を、 H・ハンターは側近たちに
「儲けるだけ儲けたことだし、

金の仕事には飽きた。別の鉱山を手がてみたい」
と話していたそうです。それが

父親譲りのハンター精神かも…。しかし金山を手放した背景には公害問題に

直面したことも否めません。


年度 金 (g) 銀 (g)
大正5年 60,138.8 124,428.8
   6年 54,551.3 133,942.5
   7年 97,916.3 284,966.3
   8年 190,492.5 350,475.0
   9年 296,070.0 576,636,3
   10年 499,282.5 981,056.3
   11年 551,973.8 1,131,390.0
   12年 812,032.5 1,693,428.7
   13年 1,132,822.5 2,259,281.2
   14年 1,048,068.7 2,475,738.7

繁栄の裏には公害問題が!

大正7年 (1918)6月にH・ハンターの経営になって、本格的な精錬所の建設や

採掘・運搬の機械化で近代的な鉱山に生まれ変わった鯛生金山ですが、飛躍

的な業績の拡大に伴って金山から排出される鉱滓が津江川汚染させて、大きな

社会問題を引き起こしています。

日本の公害問題の原点といわれる足尾鉱毒事件 が尾を引いていた時代だけに

H・ハンターも河川の汚濁問題には相当苦慮し、汚点を残す結果に。

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松本恒平氏の『鯛生金山史』によると、大量に発生する鉱滓に対して対策を講

じないまま生産の拡大を図ってきた来た結果、鉱毒が流れ出して河川を汚濁さ

せ、流域内の魚類を減退あるいは全滅させて中津江村民の貴重な収入源であ

る漁業に大きな被害を与えました。さらに沿岸集落が川の水を飲料水や用水に

利用できなくなり、大正8年8月31日には村民大会が開催されて、鯛生金山株

式会社に対して鉱毒被害に対し相応の処置をはかることを決議しています。

この公害問題は木村鐐之介社長の代になって、「河川汚濁に対し大正10年4

月より満5ヶ年間毎年金2,500円を中津江村に寄贈する。漁業権利用者並び

に飲料水関係集落には一時金3,000円を寄贈し、将来異議を申したてないこ

と」などを盛り込んだ覚書を取り交わせて和解しています。


津江渓谷沿いの中津江村

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