在りし日の姿を求めて 23
中禅寺湖畔に高級リゾート開発 その1


西六番館跡から望む中善寺湖畔


中善寺湖畔ウッドデッキからの夕景


在りし日の西六番館
(福田和美氏所蔵)

青年時代のH・ハンター
(福田和美氏所蔵)

   釣り人羨望の東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部


鯛生金山を人手に渡して大正14年に上京したH・ハンターは、赤坂に『範
多事務所』を設けて、宮崎県の見立鉱山の再開発に取り組むと同時に奥
日光・中禅寺湖畔に鱒釣りを中心とした 『東京アングリング・エンド・カンツ
リー倶楽部』 の創設にも邁進していた。

『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』は在日外交官と日本の上層
階級を対象にした友好クラブで、それまでの日本の土壌にはない紳士的な
国際交流の場を築こうとしたのではないかと思われる。その本拠地として 中
禅寺湖畔を選んだのは 「幼少年時代をすごしたスコットランドの気候風土
に似ているから」と側近の伊藤徳造さんらに話していた。

真夏でも冷涼な空気と男体山を中心とした湖水を取り巻く自然環境に魅
せられ、さらにフライフィッシングを愛していた H・ハンターは中禅寺湖の虜に
なったようだ。

幕末以後、来日した外国人が日本の夏の蒸し暑さに閉口して、避暑地と
して注目したのが奥日光中禅寺湖畔であった。ことに明治11年に来日し、
6月から9月にかけて東北、北海道を旅したイギリス人の旅行家 イザベラ・
バード女史
が滞在して、彼女が著した 『日本奥地紀行』によって紹介され
て以来、在日外国人の間で奥日光は避暑のメッカとなっており、各国大使
館員の別荘も立ち並んでいて、国際的な社交クラブを立ち上げるには、この
上ない条件が揃っていた。

上京後間もなくH・ハンターは当時の上流階級の社交の場であった『東京
倶楽部』に入会。たちまち中心的な存在になり、古参メンバーの鍋島桂次
郎貴族院議員ら鱒釣り愛好者で結成していた『丸沼鱒釣会』に加わった
が、奥日光湯本からさらに金精峠を越えた丸沼へは交通が不便で 鱒釣り
の場を中禅寺湖に移してはどうだろうというのがH・ハンターの発想の原点か
もしれない。

中禅寺湖で案内を頼んだ大島久治は トーマス・グラバーの書生をしていた
ことがあり、グラバー家とは家族以上のつきあいをしていた奥日光の中心的
人物で、H・ハンターも親交を結ぶようになった。

大島久治氏が管理をしていた旧トーマス・グラバー家の別荘は、大崎といわ
れる中禅寺湖畔でも最高の場所にあった。グラバー氏が明治44年に他界し
た後は同じ英国出身のフレデリック・リンガー家の所有になっていた。大島氏
の仲介で譲り受けることができ、解体して新にハンター氏の別荘と『東京アン
グリング・エンド・カンツリー倶楽部』のクラブハウスを兼ねた『西六番館』の建
築に取り掛かった。

和洋折衷のコッテージ風二階建て延べ床面積220坪の豪壮な『西六番館』
は、正面玄関を入ると大ホールとキッチン、ビリヤードも楽しめる大小二つのダ
イニング、小ホールとサロンがあり、二階にハンター氏専用の個室のほかバスト
イレ付きゲストルーム4室。後にH・ハンターはビジターのゲストハウスとして西
二番、三番、五番館も設けている。

『西六番館』の建設と同時に鍋島直映(なおみつ)侯爵を代表者として『東
京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』に利用する土地の借用願いを帝
室林野庁に提出。ハンター氏の中善寺湖畔リゾート構想に拍車がかかった!



トーマス・グラバーとH・ハンター

長崎の高台で異彩を放ち観光の目玉になっている旧グラバー邸のオーナー
であるトーマス・グラバーは、1838年スコットランドに生まれ、19歳の時に上
海にやって来て貿易ビジネスを身につけ横浜、長崎が開港した 安政6年
(1859) 来日した。H・ハンターの父エドワード・H・ハンターもグラバーと同
時期に日本にやって来て、二人は横浜の英国資本による極東貿易会社
ジャーディン ・マセソン商会で貿易に携わった後、グラバーは長崎へ、E・H・
ハンターは神戸へ向かい、それぞれ事業を起こした。

グラバー商会は慶応4年〜明治元年の幕府軍と薩長連合の討幕勢力と
の戦い ・戊辰戦争で薩長側の武器弾薬を取り扱い巨額の利益を上げた
が、戦いが終結すると軍需品の需要が激減して経営が悪化。佐賀藩と共
同経営で高島炭鉱の開発に当たるが高島炭鉱も赤字続きで明治4年に
グラバー商会は倒産。

グラバーは後に高島炭鉱を引き継いだ三菱社に移籍して、同社の2代目
岩崎弥之助のはからいで東京の三菱本社に迎えられた。 明治新政府が
内外人交歓のために設けた社交場『鹿鳴館の外国人書記も務める。グラ
バー商会の商権は同商会に勤めていたフレデリック・リンガーが引き継いだ

グラバーとH・ハンターは世代が違い直接面識はなかったが、グラバーは奥
日光に頻繁に通い鱒釣りに興じた外国人の草分けで、その評判は『東京
倶楽部』のメンバーから伝え聞いていた。


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