在りし日の姿を求めて 22
見立鉱山事業 その4 国際情勢悪化で有為転変


元見立鉱山クラブハウス『英国館』



当時としては珍しい丸太組みの
英国館玄関



日之影町のシンボル青雲橋







        有為転変の見立鉱山とH・ハンター

満州事変や上海事変の勃発に続いて国際情勢は悪化の一途をたどり

英国籍のH・ハンターが外国資本で見立鉱山(東洋鉱山)を経営するこ

とは困難になり、昭和15年9月ラサ工業と鯛生産業の合併が実現する

と、東洋鉱山(株)はその傘下に。 ワイゴール兄弟やマットソン技師も同

年末に見立を去り帰国。彼らの帰国を機に従業員の身の振り方にも充

分気を配った上でハンター氏は全ての事業を整理し、余生を送るために

小平に建設していた『範多農園』で自給自足に近い暮らしを始めた。


その後ラサ工業の傘下で見立鉱山は引き続き操業。錫の生産量は伸び

選鉱処理能力は過去最高の10t/月に達したが、昭和19年に錫鉱業整

備令により錫の採鉱が中止に。鉛と亜鉛鉱山として第2次大戦中も一部

操業していたが敗戦と同時に休山となった。戦後の昭和24年旧鉱滓(選

鉱スライム)からの錫回収に着目。26年から選鉱所の復旧にかかり、29年

から本格的な操業が再開されたが、昭和34年に東洋鉱山(株) はラサ工

業に吸収合併され、以降見立鉱山はラサ工業の経営に。しかし、鉱床の

品質低下とともに旧鉱滓量も底をつき昭和44年に閉山となった。


見立鉱山で現場監督を務めていた大久保安威さんの話では、錫精鉱に

携わった社員のノウハウは大戦中、日本が占領したマレーやペナンでの錫

精錬所で大いに役立ったという。大久保さん自身もペナン錫精錬所で敗

戦まで所長を務め、戦後処理を済ませて英国軍に引き渡して昭和21年

2月に引き揚げてきた。

クラブハウスは見立鉱山閉山後放置されていたが、当時所有していたラサ

工業から日之影町に寄贈され、同町が町費を投じて修復。昭和61年11

月に 『英国館』としてオープン。国際交流施設として利用され内外から訪

問者も多いと聞いている。



H・ハンター経営時代の見立鉱山社員

鉱山従業員が楽しみにしていたレクリエーション
大会


伝説に始まる見立鉱山の歴史(日之影町・見立鉱山物語より)

西暦 年号 年次            主 な で き ご と
1627 寛永  甲州武田家臣・馬場新右衛門、高見但馬守によって大吹鉱山発見
1688 元禄  大吹(大福)鉱山本格的に採掘
1908 明治 41  大吹鉱山を元延岡藩主内藤政挙氏が買収、採掘
1917 大正  見立鉱山本格的に操業開始(準重要鉱山指定)
1921 大正 10  錫価暴落のため休山
1924 大正 13  英国籍のH・ハンターにより採掘再開(龍三鉱業合資会社経営)
1924 大正 15  東洋鉱山(株)経営となり外国資本を導入して近代的操業開始
1940 昭和 15  国際情勢の緊迫で外国資本による経営が不可能となり、外国人技師
 全員帰国。ハンター氏は引退、ラサ工業(株)外2社の合弁経営となる
1941 昭和 16  太平洋戦争始まる
1944 昭和 19  錫鉱業整備令発令
1946 昭和 21  鉱山休止
1951 昭和 26  鉱山再開 旧鉱の回収により操業。選鉱場復旧着手 月3,000t
 の処理能力施設完備
1054 昭和 29  本格的操業開始(採掘粗鉱の選鉱処理)
1959 昭和 34  ラサ工業(株)の経営となる(東洋鉱山合併吸収)
1963 昭和 38  鉱床の品質低下により休山
1965 昭和 40  鉱山再開(旧鉱滓処理)
1969 昭和 44  閉山して見立鉱山の歴史の幕を閉じる
1985 昭和 60  ラサ工業から旧クラブハウスが日之影町に無償提供。
1986 昭和 61  日之影町が1,600万円の町費をかけて旧クラブハウスを修復。
 『英国館』と名づけて国際交流施設としてオープン

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