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見立鉱山事業 その4 国際情勢悪化で有為転変 | |
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有為転変の見立鉱山とH・ハンター 満州事変や上海事変の勃発に続いて国際情勢は悪化の一途をたどり 英国籍のH・ハンターが外国資本で見立鉱山(東洋鉱山)を経営するこ とは困難になり、昭和15年9月ラサ工業と鯛生産業の合併が実現する と、東洋鉱山(株)はその傘下に。 ワイゴール兄弟やマットソン技師も同 年末に見立を去り帰国。彼らの帰国を機に従業員の身の振り方にも充 分気を配った上でハンター氏は全ての事業を整理し、余生を送るために 小平に建設していた『範多農園』で自給自足に近い暮らしを始めた。 その後ラサ工業の傘下で見立鉱山は引き続き操業。錫の生産量は伸び 選鉱処理能力は過去最高の10t/月に達したが、昭和19年に錫鉱業整 備令により錫の採鉱が中止に。鉛と亜鉛鉱山として第2次大戦中も一部 操業していたが敗戦と同時に休山となった。戦後の昭和24年旧鉱滓(選 鉱スライム)からの錫回収に着目。26年から選鉱所の復旧にかかり、29年 から本格的な操業が再開されたが、昭和34年に東洋鉱山(株) はラサ工 業に吸収合併され、以降見立鉱山はラサ工業の経営に。しかし、鉱床の 品質低下とともに旧鉱滓量も底をつき昭和44年に閉山となった。 見立鉱山で現場監督を務めていた大久保安威さんの話では、錫精鉱に 携わった社員のノウハウは大戦中、日本が占領したマレーやペナンでの錫 精錬所で大いに役立ったという。大久保さん自身もペナン錫精錬所で敗 戦まで所長を務め、戦後処理を済ませて英国軍に引き渡して昭和21年 2月に引き揚げてきた。 クラブハウスは見立鉱山閉山後放置されていたが、当時所有していたラサ 工業から日之影町に寄贈され、同町が町費を投じて修復。昭和61年11 月に 『英国館』としてオープン。国際交流施設として利用され内外から訪 問者も多いと聞いている。 |
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伝説に始まる見立鉱山の歴史(日之影町・見立鉱山物語より)
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