範多農園の蔵の最期
と
 戦時中の農園の暮らしについて
元管理人の次女・一重幸(いちじゅう ゆき)さんからの聞き書き @ 

在りし日の範多農園の敷地内で唯一現存し、ハンス・ハンターの遺産であった白壁の蔵も、ついに姿を消すことになってしまいました。昭和12〜13年にかけて小金井カントリーゴルフ倶楽部の北側一帯(小平市鈴木町2丁目722番地) に日英混血の実業家ハンス・ハンターが、迫りくる大戦を予知して、鉱山事業や奥日光中禅寺湖畔での国際交流事業を整理した全資産を注ぎ込み、自給自足的な余生を送るために設けた英国・カントリースタイルの農園の最後の証もこれで消えてしまいます。小平市から歴史的景観がまた一つ失われて行くのは残念ですが、未曽有の被害をもたらした東北関東大震災と時を同じくして消えるのも、春の阿修羅の仕業かと…。

幕末にアイルランドから来日した彼の父エドワード・H・ハンター、長兄のリチャード・ハンター(範多龍太郎)含めてハンター一家が、日本の近代化に寄与した功績はあまり知られていません。明治初期の諸外国との不平等条約の改正に寄与し、日立造船や住友生命保険の前身、鯛生金山や見立鉱山などを私財で築き、中禅寺湖のリゾート・観光を手掛けた草分けでもあります。

そんな裏面史と功績を秘め、ミステリアスな魅力も残している元範多農園の名残りを留める跡地「日本植物防疫協会」「残留農薬研究所」の敷地も売却され、蔵も近く消えてしまうことに。この蔵を戦後間もなくから所有してきた「日本植物防疫協会」では、病虫害による植物防疫に関する資料の展示蔵として、2007年6月から一般にも公開して、元の所有者ハンス・ハンター及び範多農園の紹介にも力を入れてくれました。しかし…。



小金井カントリーGCの用地買収と並行して、H・ハンター個人で求めた農園用地は約1万6000坪。その広大な敷地のうち、小金井カントリーGCに接した4000坪の屋敷内に、麻布宮村(現在の麻布十番)の彼の別宅から白壁の土蔵を移築しました。元は大岡越前守屋敷にあったと伝えられる蔵でした。いかにも粋好みのする蔵で、日本の伝統家屋を好み、“家道楽”を自称していたハンス・ハンターが一目惚れして手に入れ、別宅に移築したそうです。それまでにもあちこちを転々とした数奇な蔵で、“めかけ蔵”とも呼ばれていました。

その蔵のルーツが知りたくて、ハンス・ハンターの足跡を訪ね歩き始めて20年余、様々な出会いと奇跡としかいいようのない展開がありました。範多農園の管理人を務めた加藤登一さんの次女であり、開設当初から事実上の閉園までを農園内で暮らした一重幸さんとの出会いも奇跡の一つでしょう。白壁の蔵が消えるに際して、農園の生き証人である一重幸さんからの聞き書きを記録しておきます。



昭和14年頃、麻布のハンター氏の別宅から移築された蔵
H・ハンターはその農園の建設を進めていた頃、農園の管理を任せられる人物も探しており、昭和13年頃、会津の農業伝習農場へ雉撃ちに出かけた折に、護衛についた矢吹町(福島県西白河郡)で警察官をしていた加藤登一さんに「小平で建設中の農園の管理人になってくれないか」と、声をかけたそうです。

当時、加藤さんの背には妻と一男二女の生活がかかっており、安定した警察官の職を捨て一農園の管理人に就くのは無謀に近く、相当に決断の要る行為でした。親兄弟はもちろん周囲も大反対で、加藤さんも悩み抜いた末に一家5人で昭和14年前後に範多農園に移り住んだと、次女で末っ子の一重幸(いちじゅう・ゆき)さんは記憶しています。「母とも夫婦喧嘩を繰り返していたのですが、ハンターさんに見込まれ、父もハンターさんに惚れ込んで、農園の管理人を引き受けたようです」。

昭和13〜14年完成直後に撮影されている
   

2011年3月記