範多農園の蔵の最期
と
 戦時中の農園の暮らしについて
元管理人の次女・一重幸(いちじゅう ゆき)さんからの聞き書き A 


福島県喜多方市郊外に住む一重幸さんから、初めて電話を貰ったのは2010年4月下旬でした。喜寿を迎えて範多農園に暮らしていた頃のことや、H・ハンターの実娘・範多光世さんと通学した小平第二国民学校(現在の小平市立二小)の同期生が無性に懐かしくなり、同小や小平市に問い合わせたり、幸さんの長男の守男さんがネット検索をした結果、モグラ通信「在りし日の範多農園」シリーズにたどり着いたそうです。4月23〜24日夕に帰宅したら幸さんからの留守電が入っており、要件と電話番号が記録されていました。そこで、かけ直したところ、いきなり「ワ〜懐かしい!光世ちゃんに会いたくて!」と、当時の思い出話を激流のごとく語り始めました。

範多農園に幸さんが移り住んだのは4〜5歳のことで、年月までは記憶していませんでしたが広大な農園や豪壮な茅葺の母屋、長屋門、大小の温室、鈴木街道に面した表門のことなど鮮明に覚えており、小学3年生の1学期まで小平第二国民学校に通学したとのこと。
管理人の加藤さん一家は、表門を入って40〜50メートルの位置で横断している田無用水の傍にあり、周囲に竹林や栗畑もありました。一家が不自由なく暮らせて、田舎の生活にはない快適さもありました。
初代管理人の加藤登一さん一家。中央が次女の幸さん。
範多邸母屋の前で(昭和14年頃)
白壁の蔵は加藤さん一家が移り住んで間もなく、麻布宮村の別宅から移築されてきたそうです。母屋の移築を手掛けた桑原棟梁が解体して、母屋の西側に移築。範多家で下働きをしていた老女の口真似で、おっかないことがあると「クワバラ、クワバラ」と呪文のように口にしていたので、幸さんは喜寿になっても桑原棟梁の名前は頭の隅にこびりついているとのこと。蔵の白壁の左官工事をしたのは当時まだ若手の職人ながら、桑原棟梁に見込まれハンター氏にも気に入られた長岡亀太郎さんでした。

後年、長岡さんはよくハンターさんと蔵のことを家族に語って、それが職人としての誇りだったそうです。「80歳まで現役の左官職人で仕事一筋に生きたのも、ハンター氏の道を究める姿勢の影響が大きいのでは」と、長岡さんの次女・加藤光代さん。奇遇にも加藤光代さん(八王子市)とも2008年12月に出会うことができました。亀太郎さんは光代さんがまだ物心つかない頃から、晩酌で一杯入ると決まってハンターさんのこと、土蔵の壁に漆喰を施した工事中のことを繰り返し、遠い昔を懐かしそうに語って聞かせました。当時の光代さんは「また始まった!」といい加減に聞いていたのですが、「ハンターさん」の名前は古稀を迎えても耳にこびりついて忘れられないそうです。「2歳年上の姉がいたら、もっと詳しいことが分かったかも知れませんが、姉は2年ほど前に他界しました」とのこと。


右から2人目が加藤光代さん(2008年12月)
   

2011年3月記