範多農園の蔵の最期
と
 戦時中の農園の暮らしについて
元管理人の次女・一重幸(いちじゅう ゆき)さんからの聞き書き B 


ハンター氏は英国籍では資産も没収され日本に留まることが不可能になる事態になり、昭和15年10月1日第5回国勢調査が実施されたのを機に、弁護士を通して日本国籍の回復届けを提出。10月3日 受理され範多範三郎に改名する手続きも5日に受理され、範多範三郎として生きることになりました。ハンター氏が麻布宮村に住まわせていた絹子さんと、二人の間にできた光世さん母娘が範多農園に越してきたのは、東京都内の空襲が激しくなった昭和17年に入ってからではなかったかと、幸さんは記憶しています。

幸さんは小平国民学校に入学した頃で光世さんは2歳年下でした。当時、農園内には子持ちの家族は加藤家だけで、末っ子だった幸さんには妹ができたようで「可愛くて、嬉しくて」学校から帰ると光世ちゃんと遊ぶのが日課でした。

当時、幸さんには5歳あまり年上の姉と2歳年上の兄がいましたが、農園内での遊び相手は光世ちゃんしかなく、いつも一緒。農園の茅葺き屋根の母屋にも毎日のように出入りしていました。2階はすべて洋室で豪華なベッドや絨毯の上に寝転がったり、1階には人気テレビ番組“お宝拝見”に登場するような家具や重要文化財クラスの置物がいっぱいありましが、自由に遊ばせてもらいました。控えの間に置かれていた金ぴかの大名駕籠にも出入りして隠れん坊をして遊んでいました。

「それでも叱られたことは一度もありませんでした。ハンターさんは物静かで無口だけれど、幼心にも貫録が感じられました」と幸さん。表門から真っ直ぐ伸びた道路を、丸田守之介さんの運転するロールスロイスなどの外車に乗って、外出したり帰宅する姿もたまに見かけました。

表門から真っ直ぐ南に伸びる4間幅の道路の両側に広がる農地は、整然と整備されて、桜と楓紅葉の並木を通して見る光景は外国のようでした。「何しろ農地ではジャガイモやサツマイモ、玉ねぎ、葉物などもよく育ち、食べきれないくらい収穫できました。春は筍、秋は栗をハンターさんの知り合いにも送っていました。柿や桃もあり、温室では水耕栽培でトマトを栽培しており、ハンターさんや栽培主任をしていた人から「これはトマトでなくトメイトウだよ」と、英語風の発音をさせられたそうです。

時々、肥料用として房総から1トントラックで小魚がど〜んと運ばれてきました。小魚と言っても沖から直送してくるから新鮮で、中にはお刺身や焼き魚、煮魚にしても美味しい魚が混じっており、近隣の人にもお裾分けしておりました。当時の小平では魚なんか干物ぐらいしか口にできなかったので、「この次はいつ魚が来るの?」と心待ちされていました。

お米は陸稲しか栽培してなかったけれど、どうして手に入れていたのか三度三度白米のご飯を食べて、空腹など感じたことがなどありませんでした。軍服の毛皮用にとヌートリアを飼い、農林省を退官した農芸化学の専門家であった酒井正巳氏が飼育に当たっていました。そのケージの隣で鶏も飼っていました。短期間でしたが、牛と馬を飼っていた時期もありました。

鈴木街道に面していた表門
範多邸母屋2階ゲストルーム
コレクションの徳川家直参の大名駕篭
   

2011年3月記