範多農園の蔵の最期
と
 戦時中の農園の暮らしについて
元管理人の次女・一重幸(いちじゅう ゆき)さんからの聞き書き C 


範多邸が爆撃で炎上した日、幸さんは光世さんと小平第二国民学校へ登校中だったか…。途中まで来ると「光世ちゃんの家の屋根から煙が出ているよ」と知らされ、光世さんが家へ帰ったかどうか幸さんの記憶は曖昧だそうです。

那須塩原の庄屋の家屋を移築した茅葺屋根の豪壮な母屋は昭和20年4月19日午前10時10分、P51戦闘機の少数編隊が京浜地区上空から襲来、機銃掃射を開始しました。この爆撃で焼夷弾が茅葺屋根にブスリブスリと食い込んで炸裂しました。厚さ60センチ以上もある茅葺屋根のあちこちから火の手が上がり、 家屋全体があっという間に炎に包まれてしまいました。 H・ハンターと入籍して間もない範多絹子・光世さん妻子も逃げおおせたものの、母屋と長屋門は全焼してしまいました。近隣の人も駆けつけバケツリレーで消火活動もしましたが、火の勢いはとても止めることができませんでした。それきり幸さんと光世さんは別れ別れになったまま消息を知る機会もなく、加藤さん一家は磐城へ疎開することにして、農園の管理人も辞しました。

幸さんは8月13日に上野駅から列車で母親と磐城の父親の実家へ向かいました。範多農園の関係者が奔走して磐城までの切符を手に入れてくれました。帰り着いた翌日、重大放送があるとラジオの前に座らされ、ガーガーという雑音ばかりしか記憶にありませんが、敗戦の詔勅、いわゆる玉音放送だと知らされました。小学3年の夏休み中でした。父親の登一さんと都立機械工業学校に在学中の兄は一週間後、家財を積んだリヤカーを引いて小平から引き揚げてきました。光世さんとの思い出といえば、通学路の所々に大きな穴があり、松根油を取った跡だとのことでしたが二人で覗き込んだり、人気歌手の松島詩子さんの家があるというので見に行ったこともありました。小学生の足では相当遠く、途中の松林が怖かった記憶があります。

H・ハンターは母屋の炎上直後から体調を崩して脳軟化症(脳梗塞)が悪化し、奥日光の別荘に転地したり、都内の霊南坂の一角で療養を続けましたが昭和22年9月24日帰らぬ人になってしまいました。

ハンター氏亡き後は疎開してきて植木屋だったという安西喜代次郎氏が父登一の後任におさまったということでした。後から来て管理人におさまったので、当初からの従業員との間でトラブルが絶えなかったということです。とにかくハンターさんを頼って様々な人が農園内に寝起きしていました。幸さんが範多農園で暮らしたのは7年前後ですが、極め付けの家屋敷や国宝クラスの家財を見て育ったので、その後どんな高級な物を見ても驚かない。羨ましくも思わない。会津周辺にも豪邸がたくさんありますが、範多邸とは品位が比べものにならない。本当にいい時代を経験させてもらったと感謝しているそうです。父親の加藤登一さんは幸さんが高校時代に他界しました。

その後、昭和46年頃、幸さんがバセドー氏病で東京・表参道の伊藤病院に入院していた時、見舞いに来た兄が偶然、都内で光世さんから声をかけられ、新橋駅前で「範多」というスナックをやっているということでした。兄の話ではハーフだから背が高く外股で歩いていたそうです。兄と幸さんの夫は光世さんに会いに行きましたが、店は閉まっていたそうです。土産に持参したお米を店のシャッターの前に置いてきましたが、何の連絡もありません。風の便りでは結婚して大田区の本門寺近くに住んでおられるそうです。逢いたい気持ちは強いのですが、光世さんは過去を思い出したくないのかも…と、幸さんは語っています。誰にも懐かしい過去もあれば、思い出したくない過去もありますから。

2010年9月24日ハンス・ハンター忌で。


2011年3月2日撮影 蔵の前の白梅の古木が今を盛りと見納めの花を


ハンス・ハンター亡き後、残された農園約1万2000坪は戦後の農地解放で一部は元の地主に返還され、残りは当時耕作者として働いていた人たちに払い下げられました。約4000坪の宅地部分は範多絹子・光世妻子が相続しましたが、田舎暮らしを嫌ったため、不動産会社を通して(財)日本植物防疫協会に売却されました。

敷地の約半分はその後、農林省改め農水省の農薬検査所(2001年から独立行政法人に移行)の所有に。戦後60年余、周辺には住宅が立ち込めて農薬試験は難しくなり、日本植物防疫協会の本拠は北区へ、研究実験施設は茨城県などに移転しており、小平の所有地は長年事実上機能をしていませんでしたから、いずれは…と予測していましたが、いよいよ現実に。

日本植物防疫協会の資料収納庫として使われてきた白壁の蔵も、移築しても管理維持するのは難しいという結論に。関係者は東京都や小平市にも保存について働きかけたそうですが、地方財政も厳しい現状では致し方ないのかも知れません。しかし、歴史的景観を失った街は魅力を欠き、ショートケーキやクッキーのような建物ばかりで「住んでよかった」と言われる街かどうか?


   

2011年3月記