在りし日の姿を求めて 41
H・ハンターとスコッチ その1


シェリー酒の樽が並んでいた範多
農園母屋の屋根裏


スコットランドのウィスキー醸造所


ニッカ余市蒸留所



               H H ウ ィ ス キ ー

H・ハンターを知る人たちからは 「ハンターさんから酒を取り上げた人生は
考えられない」と云われていたほど、酒好きで、とりわけウィスキーにはこだ
わっていた。

範多農園母屋の地下倉庫には、 H・ハンターが愛飲していたスコッチの
ほか、一流ブランドの ウィスキーやワイン、シェリー酒などの洋酒を貯蔵し
ていた。

東京八重洲口の明治屋、 横浜の三浦屋あたりでも手に入らない銘柄
を揃えていたという。


親しい友人から“HHウィスキー”と呼ばれていたハンター独自のウィスキー
は、スコットランドの有名無名の醸造元を彼自身が巡り歩いて、 日本で
いうところの地酒フォーティフィケーションを元にしたものだった。

このフォーティフィケーションの樽詰め(200リットル入り)モルトを、スペインの
片田舎の醸造元から取り寄せた高級シェリー酒の空き樽に詰め替えて寝
かせ、微妙な味の変化をもたせた。

辛口であったが、口当たりのまろやかなウィスキーに仕上がったところで、ス
コットランドの醸造元に詳しいデータを付けて指示し、現物を何度か船便
で往復させて試飲を繰り返した上で、ようやくH・ハンターの舌を満足させ
る“HHウィスキー”が完成したそうだ。

H・ハンターの舌の感覚は鋭く、やかましかった。

まさに手塩にかけて熟成させたプライベート ・ウィスキーを醸造元で瓶詰め
にさせ、10ダース、20ダースと何回にも分けて輸入して、範多農園母屋の
地下倉庫や赤坂の範多事務所、奥日光の別荘などに貯蔵していた。

その当時、壽屋の鳥居信二郎は京都郊外の山崎で、 今日のサントリー
ウィスキーの醸造に取り組み、加賀正太郎はニッカウヰスキーの創始者 ・
竹鶴政孝が『大日本果汁』 を創業するのを支援しており、北海道・余市
でウィスキーの製造を始めていた。

それぞれの創業時には、H・ハンターが利き酒をして、味やフレーバーの相
談に乗り、「君たちは商品としてのウィスキーを完成させなさい。僕は自分
の飲むウィスキーを造る」と云って、モルトの樽を日に何度も愛しそうに転が
せていたという。

残念ながらHHウィスキーの写真は残ってないが、範多農園母屋が落成し
たときに銀座の写真屋『双葉』に作らせたアルバムの一枚の写真に、屋根
裏に収納されシェリー酒の樽らしきものが見える。



・・・サントリーとニッカウヰスキーの沿革・・・

 明治22年 1899 鳥井信治郎が鳥井商店を創業
 大正 7年 1918 竹鶴政孝が英国・グラスゴー大学に留学、応用化学を学習
 大正10年 1921 鳥井信治郎が壽屋(寿屋)を設立
同年11月竹鶴政孝グラスゴー大学応用化学科を専修し、その間に
本格的ウィスキー製造方法を習得して帰朝
 大正12年 1923 6月、竹鶴政孝が10ヵ年の契約にて(株)寿屋に入社。ウィスキー製
造に従事し、同社山崎工場を設立す
 昭和 4年 1929 寿屋で本格国産の『サントリーウィスキー白札』誕生
 昭和 9年 1934 3月、竹鶴政孝が寿屋を退社。7月大日本果汁(株)を創立し、代表
取締役に就任北海道・余市蒸留所でウィスキーの製造に着手
 昭和15年 1940 大日本果汁(株)でウィスキー第一号が誕生
 昭和27年 1952 8月、大日本果汁はニッカウヰスキー(株)に社名変更 ニッカウ井スキー第1号
ニッカ余市蒸留所博物館で展示

 昭和38年 1963 寿屋はサントリーに社名変更。社名の由来は創業者の“鳥井さん”
を捩って“さん”と“とりい”からサントリーにしたといわれる



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