No.3


明治11年(1878)の春、身体はずんぐりしているが知的な眼を輝かせた一人の英国人女性が、汽船から横浜埠頭に降り立ちました。

名はイザベラ・バード。サンフランシスコから単身乗船し、太平洋を渡って初めて日本の土を踏みました。

日本が鎖国をとき外国との交流を始めてまだ日は浅く、外国人も居留地と称する限られた地域がら旅にでることが制限されていた時代。

横浜、東京を経て日光を皮切りに山越えをして、日本海側ルートをたどり山形、青森、北海道の各地を3ヵ月かけて旅した女性です。

その彼女が日光で投宿した『金谷カッテージ・イン』の室内を、幸運にも見せてもらうことができました。中禅寺湖再訪からの帰途、いつものように気の向くままに”道草”しながら歩いていた時のことでした。


晩年のイザベラ・バード女史
Isabella L.. Bird
(1831-1904)

日光で初めて外国人専用旅館として使われた
『金谷カッテージ・イン』は当時のままに。
明治11年イザベラ・バード女史が投宿し、
自身でスケッチした『金谷カッテージ・イン』

平凡社ライブラリー『日本奥地紀行』より

東照宮楽人であった金谷善一郎が明治4年に、日光を訪れたアメリカ人宣教師ヘボン博士を自宅に泊めたことがきっかけで、 同博士の勧めにより外国人専用旅館を始めたのがこの家 『金谷カッテージ・イン』。日光金谷ホテルの前身です。

当時の宿泊者からはもっぱら“SAMURI HOUSE”と呼ばれていたそうです。イザベラ・バード女史は帰国後、日本での旅の詳細な記録と印象を『日本奥地紀行』としてまとめ英文で出版。飾らない筆致と克明な描写で当時の日本の自然や暮らしが浮かび上がってくる紀行文です。


「家は簡素ながらも、一風変わった二階建て
で、石垣をめぐらした段庭上に建っており…」

と、女史が書いている当時より樹木は成長。
元は徳川家から拝領したという家の玄関。
ポーチにあたる部分には 木製の椅子が二
脚備えられて。
玄関の側面板壁に掲げられた天然木に
彫刻を施した看板。

現在は非公開で金谷家の遠縁の女性が住ん
で管理しており、女史が泊まった部屋で当時
の資料の数々を見せてもらいました。

部屋の中央の座卓には外国人が逗留し
た当時の夕食サンプルがセットされお銚子
や急須も。
「…もう一方の床の間には棚があり、引き戸の
ついた非情に貴重な飾り棚」とバード女史が
お気に入りのようだった床の間の違い棚。

特別あつらえの洋服ダンス。扉には鏡、その
下部は引き出しがついているように見えるが、
内部はがらんどうで、長身者の衣服も掛け
られるよう工夫されていた。
一見押入れの襖のように見えるが、下段の
の襖を開けると、階下の部屋(右の写真)
に降りられる非常用騙し襖。刀が振り回
されないように天井は低く作られていた。
階下にある応接間。アームチェアやソファ
が置かれていたが、傍らには囲炉裏が切
られ、古民具が武家屋敷を象徴。



中禅寺湖からの帰途、元田茂沢御用邸前でバスを降りて、御用邸を見学。
その後、ぶらぶらと日光駅へ向かって歩いていた時、記憶の隅にあった『金谷
カッテージ・イン』の建物にそっくりの屋敷を見つけて、足を止めました。

その時たまたま前庭の草むしりをしていた年配の女性に声をかけたのが縁で、
金谷侍屋敷を見学させてもらえる幸運に めぐり合いました。これもH・ハンタ
ーが引き合わせてくれたのではないかと・・・。

そう信じて疑わないほど、ハンターさんの足跡をたどる約15年の旅は様々の
出会があり、ハプニングの連続でエキサイティングな旅でした。完
 小平のもぐら
玄関に飾られていたヘボン博士のレリーフ。
ヘボン式ローマ字表記の考案者としても
知られる親日家の宣教師だった。


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