導水路としての玉川上水の最終点 |
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開設後間もない昭和40年(1965)当時 |
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2006年現在
マップ参照 |
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昭和40年3月末まで、新宿駅西口の高層ビル街一帯は羽村から玉川上水を通して送られてきた水をろ過し、東京都心部に供給する心臓部の役割を果たしてきた淀橋浄水場であった。
玉川上水開削以来、江戸の上水は慶応4年(1868)まで214年間徳川幕府によって管理されてきたが、明治維新後の同年8月東京府に移管された。
幕末から明治初期にかけて、水の汚濁に加えて流域にコレラが流行し、東京府はたちまち難問題に直面。従来の自然流下式に変えてろ過施設を備えた近代水道の必要性が高まり、その施設として明治32年(1899)
に完工したのが淀橋浄水場であった。
その後、第二次大戦後の復興、高度経済成長期を迎えて、東京都はマンモス化。給水人口急増と新宿駅西口の再開発の逼迫性をからめて淀橋浄水場の施設機能を、東村山浄水場(東村山市美住町)に昭和38年(1963)移設・拡充した。
移設にともなって設けられたのが小平水衛所、現在の小平監視所である。羽村からここまで玉川上水で送られてきた水は地下の導管を通して東村山浄水場に送っている。
昭和40年3月末日で淀橋浄水場は閉鎖され、小平監視所から下流の玉川上水も導水路としての役割を終えた結果、その後の東京都の深刻な水不足にともない、昭和40年代後半から小平監視所下流には水が完全ストップする事態に。
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小平監視所内。沈殿層で浮遊物を除去
した水を地下の導管で東村山浄水場へ |
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