慶応4年(1868)まで、江戸の上水は幕府によって管理されて
いたが、同年8月に東京府に移管された。後、東京府は明治
7年に玉川上水を文部省に、10年には神田上水を内務省衛生
局に、外国より導入された科学的・定量的な水質検査を委嘱
した。
結論として、水道の水は木樋の腐食個所から汚水が流入し、
堀井戸の水も大部分混合物を含んでいて、何れも不適であっ
たことが確かめられた。
新政府は、緊急に水道整備を要する地区として、人口が多く
経済活動の中心である東京府、京都府、大阪府の3府と函館、
新潟、横浜、神戸、長崎の5つの開港場を定めた。このよう
な経過から、近代水道の開設は、横浜(明治20年)、函館、
長崎、大阪、東京、神戸、新潟、京都の順となった。
東京府は明治23年、浄水工場(計画給水人口150万人・計画給
水量18万8千立方b/日)を千駄ヶ谷村に作ることで設計した
が、その後、淀橋町に変更した。
玉川上水から原水を取水するため、代田橋から淀橋までに新
水路が造られた。
明治31年12月に通水、震災、戦災にも耐えた淀橋浄水場(9
万坪)がその役割を終えたのは、昭和40年3月31日であった。
現在は、都庁舎がある新宿新都心に変貌している。
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