羽村堰第二水門から下流の玉川上水両岸にに続く桜並木を300メートルほど下った辺りにかかる堂橋。玉川上水の根本資料とされる『上水記』には、川崎橋として記されている古橋の一つだ。
この橋付近の地名が川崎であったことに由来するらしいが、明治末期頃に堂橋と改称された。土地の伝説によると、聖徳太子が摂政となった大昔のこと、多摩川の大洪水で押し流された上流の村人16人が一本の大ケヤキにしがみついて、この川崎付近の岸に打ち上げられ命拾いをした。
漂流してきた人々は大ケヤキを救いの神として、このケヤキ一本で小さなお堂を建て、金無垢の薬師如来を祀り後世に語り伝えることにした。
川崎一本堂と呼ばれるそのお堂が近くにあることから、堂橋と愛称され改称されたとのこと。
堂橋と改称された明治末期当時の玉川上水の両岸は、人食い川と恐れられてきた姿そのもので、現在の桜並木とは対照的である。
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