拝島分水と撚糸水車 |
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推定明治27〜43年頃 |
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かつて拝島分水が流れていた日光往還筋
(現奥多摩街道) 2000年現在 |
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日光橋橋下流の玉川上水右岸から分水され、日光脇往還に沿ってそのほぼ中央に引かれた拝島分水には、明治10年に水車が8台設置された記録がある。
当時、拝島宿周辺でも養蚕・生糸の生産が主要な産業になり、製糸機械に水車の動力を利用することを東京府と神奈川県に願い出て、拝島分水に水車の設置が許可された。主に繭から糸を引くのと撚りをかけるのに利用され、撚糸水車と通称された。
左の水車の写真は明治27〜43年の間に撮影されたと推定される(『多摩のあゆみ』121号より)。当時の拝島宿の家並みや日光脇往還の中央に引かれた拝島分水の様子もよく伝わって来る。
撚糸用水車は製粉・精米に使われた水車に比べて、撚糸八丁などの機械を動かすために水受けが浅くされていたので、軽やかで女性的だったそうだ。
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