庄司徳治コレクションより

北沢分水口
北沢分水と分水口
大正14年(1925)当時の北沢分水口付近
平成15年(2003)以降の北沢分水口付近

マップ参照
岩崎橋の下流に烏山分水口に続いて設けられた北沢分水口も、烏山分水口と同様に『上水記には分水年月不詳と書かれているが、元は上北沢分水と称されて、水口は1尺四方。

上北沢、赤堤、世田ヶ谷村、松原、代田村の5ヵ村に引水され、水末まで1里半あまりとされている。

『新編武蔵野風土記稿』によると、この分水の起こりは万治元年(1658)村人の願いにより分水を許可されたと記されている。

下草や小木で水路は隠れがちだが
分水口付近の堰は現在も残っている。
分水口のゲートも現存している。
烏山分水口と北沢分水口の上流にかかる岩崎橋は、初めは架設者の小作庄太郎の名前から『庄ちゃん橋』と呼ばれていたが、太平洋戦争中、橋のたもとに岩崎通信工業の工場が進出してから『岩崎橋』と改称され、工場の敷地の一部は『岩通ガーデン』として公開されている。


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