庄司徳治コレクションより

小金井橋
小金井橋と堤の桜変遷
大正時代の小金井橋花見風景
両岸は広々として水路はきれいに草刈りされ
江戸〜明治の桜の名所としての面影を保っている。
昭和5年(1930)に建造され2007年1月現在の小金井橋。
橋脚部分はレンガ積みのアーチになっている。
小金井街道の拡幅に伴い2006年暮れから小金井橋の架け替え
工事が行われている。77年ぶりの架け替え工事で3月完成予定。


マップ参照
玉川上水を渡る地点に架かる小金井橋は上水記にも記されている古橋で、この近くに武蔵七井の一つである名水黄金井があったことに因むという。

元文2年(1737)武蔵野新田開発を推進した川崎平右衛門が幕命により、大和吉野山や常陸桜川から山桜の苗木を取り寄せ、この小金井橋を中心に東西6キロにわたって約1000本が玉川上水両岸に植えられた。植樹から50年ほど後、満開の小金井堤の桜の見事さは五日市街道を往来する薪炭の馬子たちらによって江戸市中にも広まる。

江戸の文化が爛熟した文化文政年間(1804〜1830)には俳人露安遊佐の地図つき花見案内書『玉花勝覧』によって名声が高まり、葛飾北斎も『金井橋勝覧』を手がけ、歌川広重の『小金井堤桜花之図』によって一躍江戸はおろか関東一の桜の名所として名声も開花。

人馬の往来が増えるにつれ木橋では損傷が激しく架け替えも頻繁になり、その費用調達に苦心した地元では安政3年(1856)約200余戸が分に応じて拠金する一方、近在にも呼びかけて念願の石橋が建造された。

江戸から明治の世になっても桜の名所を誇っていた小金井堤の桜も、明治半ば過ぎから樹勢の衰えが目立ち、サクラ博士として高名な三好学理学博士が調査した結果、36品種3亜種による山桜の大集植地として貴重な存在だと評価され、大正13年(1924)国の名勝指定を。

しかし第二次世界大戦後、米軍の立川・横田基地駐留による五日市街道の拡張で堤が削られ、昭和40年淀橋浄水場の閉鎖で上水の通水停後、水路の荒廃が著しい今日である。
小金井橋左岸北詰に建って
いる『名勝小金井桜』碑
2007年1月現在の
小金井橋下流

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