庄司徳治コレクションより

関野橋
 関野橋 田無村名主下田半兵衛と桜樹接種碑

大正時代の関野橋周辺も花見シーズン
には両岸を埋める花見客で賑わいを。

昭和41年に架設された現在の関野橋

マップ参照
小金井橋から1.5キロほど下った玉川上水に架かっている関野橋も『上水記』に記されている古橋。

享保9年(1724)下小金井村の名主関勘右衛門が玉川上水の北側、現在の関野町1、2丁目一帯を開拓。その名に因んで関野新田と呼ばれ、橋も関野新田橋と称され、後に関野橋と改称。現在の橋は昭和41年(1966)に架設。

この関野橋から30メートルほど下った左岸に、山型をした自然石の『桜樹接種碑』が建っていおり、五日市街道に面した正面には流れるような筆跡で「さくら折るべからず 槐字道人」とのみ彫られている。

現代彫刻のようにモダンで美しい石碑だが、江戸末期、嘉永4年(1851)3月に田無地区41ヵ村惣名主・下田半兵衛が建立。槐字道人は下田半兵衛その人である。

裏面には「桜樹接種記」と題して、玉川上水が開削されて以来、流域の村々もその恩恵に浴してきたことや、両岸に桜を植えたいきさつ。その後、桜の名所として名声を高め、天保15年(1844) には後の13代将軍家定が世子の時代に観桜に訪れ(御成り)たが、以後は朽ちる木も多くなったことに心痛めて、上水を管理する持ち場村に命じた桜の苗木の補植に喜んで協力してくれたことを記している。

接種とは植え継ぐことで、「この後心あらん者幾万々年もつぎつぎにうゑつぎて…」と、後世にも接種を呼びかけているのだが…。
関野橋下流に建つ桜樹接種碑

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