久右衛門橋と久保河岸 |
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水が絶たれていた昭和60年(1985)当時の
久右衛門橋下流の水路。北岸に比べて日当たりの
いい南岸には底近くまで樹木が根付いている。 |
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2005年現在 |
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府中街道と玉川上水が交差する地点に架かっているのが久右衛門橋である。
古くからの街道筋に架けられた橋で、この付近の地主の名前に因んでいる。
この久右衛門橋下流50メートルほどの南岸に、久保河岸と呼ばれる船溜り跡がある。現況の玉川上水からは想像できないが、明治3年(1870)4月から同5年5月まで、多摩の物産を東京の中心部に運ぶための船が1日100隻も通行した。
通船のための船着場・船溜を「河岸」あるいは「問屋」と称して、最盛期には羽村から四谷大木戸までに32ヵ所設けられた。そのうちの1ヵ所が久右衛門橋下流にあり、小川村の荒井清五郎が『久保河岸』として経営していた。
上水の汚濁を理由に通船はわずか2年で禁止され、船溜も埋め立てられてしまったが、唯一、久保河岸跡は原型に近い姿を留めているという。
久右衛門橋の北側へ津田塾大学の前身・女子英学塾が移転してきたのは、昭和6年だった。
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久右衛門橋から50メートルほど
下流の南岸でえぐれている所が
久保河岸跡 |
マップ参照 |