庄司徳治コレクションより

境水衛所跡
境水衛所と千川分水口
境水衛所。年代は不詳だが住居らしい建物が見える。
2000年頃の境水衛所跡
小金井市と西東京市、武蔵野市の市境で五日市街道に沿って流れる玉川上水もV字型に緩くカーブして東上している。3市の市境にかかる境橋の下流に境水衛所跡が残っている。

明治32年(1899)淀橋浄水場が竣工するのに先立ち、同27年に設けられた8ヵ所の水衛所の一つで、分水口の管理や水路の点検、芥・不用物の除去など江戸時代に水番人がやっていた仕事を受け継ぎ、敷地内に住まい常駐していた。

昭和40年(1965)淀橋浄水所の閉鎖にともない、小平監視所から下流の水衛所は閉鎖又は統廃合された。閉鎖された境水衛所跡にはかつて芥留めに使用されていた鉄製の柵が赤錆びたまま2007年の今日も現存している。

その鉄柵の手前、玉川上水左岸には千川上水の分水口跡も残っている。分水口は3回ほど付け替えられているが、千川上水は元禄9年(1696)小石川御殿、湯島聖堂、寛永寺などに給水するために設けられ、下谷、浅草方面80余町に飲料水を。

後には流域20ヶ村に灌漑用水、水車の動力としても活躍したが、昭和46年(1971)当時大蔵省印刷局王子工場の水利権解消で300年近い役割を終えた。同工場では紙幣の印刷に千川上水の水が使われていた。

千川上水分水口跡 千川上水清流復活の記念碑
小平監視所から下流の玉川上水に勢いよく流がれる水が途絶えて約20年、東京都のマイタウン構想清流復活事業により、下水再生水が昭和59年(1984)8月に野火止用水に流され、同61年に玉川上水、平成元年(1989)には千川上水にも“清流”がもどってきた。

マップ参照

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